今日はブルーさんの治った自慢から。
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一部引用させていただきます。
浅見さん、その節はありがとうございました。
ここで、
>発達障害は、医療から解放されている
に関して、成人当事者側の視座がありますので、今回はその掘り下げをしておこうと思いました。
発達障害というと、どうしても、「障害」という文字がドドーンと、そう、「ドドーン」と、絶望的なオーラをまとって目立っておりますね。
あるいは、「障害」とまでいかなくても、発達凸凹と表現されるときでさえ、「凸凹をなんとかしなくてはなあ」となりがちです。
しかし、いうまでもなく、ここで本当に考えなくてはならないのは、「発達」の方です。
人の発達はそもそも「全人的」なものです。発達を見る際には、総合的で、全体的な視野が必要です。身体に限定して着目するだけでも、同様に「全身的」な視野が必要です。
さらに、身体や個人という視野を超えて、その人の「人生全体」でとらえると、つまり「生涯発達」的観点から言えば、人間は社会における人間関係まで含め、「人生まるごと」発達していく存在です。ここでも、総合的で全体的な「全人的」視野が必要だと思います。
当然のことですね。
発達障害は全身の障害。
だから全身からアプローチすると治る。
日本の医療界がその知見にたどりつくまでは、医療は頼れない状況は続くでしょう。
けれども全身だからこそ、家庭で育むことができます。
そしてだからこそ、「いい医療者」を血眼になって探さなくても、今すぐ家でできることがあるということです。
まずは、黄色本、芋本あたりから始めるといいですね。
そして、発達援助が非医療化しているからこそ、夏休みは貴重です。
時間があり、身体を動かしやすい季節であるからです。
身体づくりにとっていい機会であるだけではありません。
資質を見極めるのにもいい時期です。
親子で遊ぶ中で
「何がこの子を生涯支える活動だろうか?」と見つけやすい時期なのです。
『脳みそラクラクセラピー』に載っている「海で何をするか」。
あれはわかりやすい指標でしょう。
私は小さい頃も、そして今も、海で一番楽しむのは全身で波に乗ることです。
画伯は砂浜に絵を描くと言いました。
栗本さんは砂浜を走ると言いました。
愛甲さんの答えは本に載っているとおり。
そこに資質が表れるのです。
そしてそれが社会で生き抜く術の基礎となっていくのです。
そしてそれを見抜くのは自分であり周囲の人間。とくに親。
専門家の介在は必要ないのです。
ブルーさんの場合は、自分の発達援助の大事な要素として「徒手系療法家」を求めました。
それは彼らが全身を知っているからです。
全身をみてアドバイスしてくれるからです。
そして発達は全身で起こるからです。
引用を続けます。
花風社は「発達援助の非医療化」を旗印に掲げておられますが、確かに人の発達は、医療など、単一の専門分野を超えて、全人的に起きている事象ですから、発達援助においては、専門家がいらない場合はいりません。自助手段でいけるものはいけます。
そして、自助手段で及ばない場合については、適宜、必要な分野の専門家に依頼することになります。その際には専門家の技術・識見のレベルや、専門家と自分の相性も踏まえ、自分で責任を持って専門家の吟味を行い、依頼するということになります。
この「専門家の吟味」に関して、私の個人的な観点を書くと、専門家に対しては、良くも悪くも「自分個人にとって、使えるか使えないか・役に立つか否か」という観点が最上位になります。
自分が現実社会で(時には手段を選ばず)生存するために「使えるか否か」「役に立つか否か」、という観点を最優先して、専門家を選びます。
つまり・・・いろいろな意味で「正しいか否か」ではありません。これはまた別の機会に。
ともあれ、専門家を利用する側から見れば、発達障害における医療は、「関連する多様な専門分野の一つ」に過ぎないし、結果として、「専門家の中で最も偉い」存在でもありません。
つまり、私から見ると、発達障害に関しては、医療は絶対視されず、「相対化」されています。
関連して、心ある医師の方は、発達障害に関して「医療には限界がある」ことを認めてらっしゃいますね。
それは、現代医学の限界とか、治せる・治せないとかいうこと以前に、本来、全人的で総合的な「発達」という事象においては、「専門家は自分の専門分野において活躍をする」、という原則的なことを、意識的であれ、無意識的であれ、感じ取られた上での発言だと捉えております。
「発達障害は、医療から解放されている」を、「成人当事者側からの、専門家の吟味」という観点から考えると、こういう感じです。
つまり、医療を使う場合でも、医療者を選ぶ責任は当事者にある。
当事者が主体である。
お子さんの場合なら保護者でしょう。
そしてそこに十分なリソース(役に立つ医療)がなければ、他の手段を探せばいいだけです。
ブルーさんの場合には、そして信頼できる徒手療法家を確保しました。
「発達は全身で起きる」と気づいたからですね。
そして何によって助けられるかは
これは、人によって違います。当然です。資質が違うからです。
でも、働き続けるためには、「何か」が必要です。
そしてそこに障害があるなしは関係ないかもしれません。
そしてその「何か」は医療ではないどころか、人ではないこともあります。
たとえば絵を描くこと。
廣木道心さんのお子さんは、『自傷・他害・パニックは防げますか?』も描いてくださった画家さんですが、人を癒やす笑顔の持ち主です。
たとえば自然とのふれあい。
そういうものは人工的な支援に勝ります。
夏休みは存分にそれを探ることのできる時期ですね。
皆さんどうぞ楽しい時間を過ごしてくださいね。
シアさん、おはようございます。大事な指摘をありがとうございます。NEUROで私が言いたかったのはまさにそれです。医療が信用できないのではない。発達に関する医療が医療未満なのです。それがバッドニュース。そしてグッドニュースは医療がなくても治るということ。
私のメッセージコーナーで展開させていただきます。よろしくお願いいたします。
精神障害の人の雇用は、知的障害や、身体障碍をはるかに上回っています。 その内訳は、統合失調症や、双極性障害など、決して軽いものではないのです。 精神障害の雇用の制度が始まったのが、10年ほど前です。 精神障害も一定数「義務化」されたのは、わずか三年ほど前だと思います。 そして、身体障碍は30年以上の雇用の歴史があることを考えれば、精神障害の人は、短期間ですごく世の中で活躍するようになっているのです。 でも、発達障害だけはそうではない。 知的障害ある方でも、たくさん働いているのに、身体障碍の人はもっと。 精神障害の人はさらに多く働いているのに、2000年代から、150倍に膨れ上がった発達障害「だけ」は支援ではほとんど苦戦していると言う。 当事者にもそう吹聴している支援者の方もいるらしい。 やはりギョーカイ人はギョーカイ人ではないでしょうか? 律儀な発達障害の人は、それを受け入れてしまう。 ギョーカイ支援者はそれを見抜いているのかいないのか?
シアさん、今産業方面の人と仕事してますが、やはり発達の人がとくに増えている実感はないそうです。
こんにちは。 それは、発達の人の雇用が増えていない!ということですか? それでは、何故に、発達障害者だけは、職場に嫌われるのですか? 私見ですが、発達障害の方の合理的配慮を啓発するセミナーで、産業方面の人はマイナスの印象を受けたと聞いています。 支援者権講師の方の説明が、酷かったと聞いてます。
啓発の成果だと思います。啓発というのは「知られる」ことですから。実態が知られれば雇いたくなくなることだってあるでしょう。「治らない」と言い張ることも?を呼んでいるようです。治らないのに通院を認めろとかいうのが、現場にはイミフですよね。
私は、障害者雇用を大手企業の人事でしておりました。
例えば、精神疾患の場合ですと、職場に変化があったり、合理的配慮をつかさどっている、上司の方の移動などで、どうしても体調を崩したりする方がいらっしゃいます。
そこで、現場では、「サポートブック」を作成して、その方に応じた合理的配慮を、同僚がチーム全体でサポートすると言う取り組みが多いです。
そう言った取り組みを行いさえすれば、その方の特性に応じた職場適応も、決して不可能ではないはずです。
そして、精神疾患の場合は、定期的に通院することで、体調や、職場での様子などを医師が把握し、カルテに記載し、何かあったときは三病衣とも連携するような体制を取っておりました。
一体、啓発って言うのは何だったのでしょうか?
セミナーなどの、具体的な内容は、詳細には把握しておりません。
ただ、出向した人事の同僚は、「酷い説明だった。」と言っていました。
しかし、啓発が盛んになる前は、職場で適応できていた発達障害の方も多いので端でしょうか?
三病衣→産業医
多いので端→多いのでは
誤字脱字失礼しました。
啓発を盛んにして世の中に発達の人を嫌ってもらう。
そうやって就労の道を阻み就労支援でめんどりにして事業所には月十数万血税から売り上げが入り本人には一万五千円の工賃。
ギョーカイ大成功ですな。
「発達障害、治るが勝ち!」に書いたとおりです。
しかし、大卒・高卒それならまだしも、軽度で特別支援学校に通った方は、クローズで働こうにも、履歴書…酷すぎる!
嫌われてもいい。
嫌われても、働いてる人もいます。
どこにでも、あちこち、いるものです。
人事に嫌われても、それでだめなら一人で仕事をするまでだ!!
頑張りますよ。
おはようございます。
医療従事者と、発達障害(の分野)の相性が良くないことが、自分なりにわかってきました。
それは、どういうことかと言うと、医療と言うのは、高度な専門職です。
心ある医療の人は、お薬や医療になるべく頼らないコンディションを維持してほしい!と願っています。
そして、花風社に絡んでくる「医療従事者」は、ハッキリ言って、発達障害の分野の人ではないことがほとんど。
どういうことかと言うと、他の分野の医療従事者は、「発達障害の医療にも達していない医療」の内情を、知らない訳でしょう?
ギョーカイ!と言われて、ひとくくりにされた!と思って怒るのはともかく、「ギョーカイ」がどんなところであるのか、NEUROを読んでいない人にはわからないでしょう。
医療と、「医療に達しない発達障害者医療」は、ちょっと分けて考える必要がある。
そして、医療を批判するとき、どうしてもこの分野は遅れていると言うか、医療の体をなしていないと言うことが、事前知識としてあまりにもなさすぎる。
発達障害は、あくまでもご家庭の療育や、当事者の頑張りにかかっていることを周知しないと、ギョーカイの支援ビジネスで何とかしてくれると思い後悔する人が出て来ます。
だから、折に触れて、治った情報を、今後も発信しないといけませんね!