帰る日。
鹿児島市内は「おはら祭り」だそうで、9時半から交通規制が始まるとのこと。
私が飛ぶのは正午ごろでしたが、さっさと空港に行くことにしました。
バスの中から桜島に話しかけます。
今回は寄れませんでした。
また今度。
空港でお土産でも買おう。それとラウンジで仕事すればいいや。
さつまあげとか炭火焼き地鶏をお土産に買い、早めのランチへ。
鶏飯です。
今回は奄美で食べなかったからここで。
ラウンジに入り、結局持っていったけど一度も開かなかった原稿を開きました。
遊びの発達。
『愛着障害は治りますか?』のP99に載っている遊びの発達ピラミッドが『知的障害は治りますか?』でも重要な役割を果たします。
考えてみればここ数年の花風社の本は、遊びを推奨してきたなあ。
『人間脳を育てる』
『脳みそラクラクセラピー』
『感覚過敏は治りますか?』
みんないかに遊びが大事か説いている本ばかりですね。
しかも、親子で本気で遊ぶこと。
そして私のこの三泊四日の旅も、色々な段階の遊びがありました。
奄美での一人遊び。
自然との遊び。
波と遊び、風と遊ぶ。
鹿児島の講座で、みんなで栗本さんのお話を聞く。
隣に座った人と二人一組で実技をする。
足重ね金魚。毛糸ふーふー。
その後、ねこ母さんと二人遊び。
親しげに話しかけてきて焼酎について教えてくれる薩摩のおっさんたち。
粋筋の女性が着る大島紬を間近でみてその美しさに息を呑んだこと。
大好きな歌手のライブにねこ母さんがつきあってくれたこと。
それからプチ饗宴。
近い仲である栗本さん、久しぶりのともやんさん、初めてお目にかかるともやん旦那さん。
距離感もバラエティに富んでいた。
それを同時にこなすのが社会性なのでしょう。
このあたりももしかしたら、実は難しいことなのかもしれない。
そんなことを飛行機の中で考えていました。
羽田に着きます。
相変わらず汚い海だなあ。
でもいいんだ。
ここが私のふるさとだから。
よそに行って安心しきって遊べるのは、私に本拠地があるから。
そして私の本拠地はここだから。海は汚いけどね。
でも私は奄美も知っているから
目をきゅっとつぶれば、またあの青い海を思い描くことができる。
自由。
人間の心は自由。
そしてこの国では移動も自由。
出会いも自由。
誰と付き合うかも自由。
その自由をできるだけ多くの人にあじわってもらうこと。
そのために必要なのは健康。
そのために必要なのは社会参加。
そしてその人なりの経済力。
それを多くの人に手にしてもらいたい。
それが「治そうよ」の土台です。
そして、十年くらい前にたった一人で始めた「治そうよ」に今はこんなに仲間がいる。
長い日本列島の方々に仲間がいて
それぞれの地域で「治そうよ」と言ってくれている。
これは、前記事のコメント欄にいるポスドクの坊やみたいに
ネット活動で思い通りの世界が実現する、と思っている人たちには一生わからないことです。
そして「治そう」が支持されるのは、私がえらいからではありません。
栗本さんがえらいからでもありません。
この自由な国で
どこに行こうと誰とつきあおうと自由な国で
それぞれが自分の頭で考えて「治ろう」と決めた人たち。
その人たちが集まって、場を作っているのです。
完
小さい頃、親子で本気で遊んで、そのうち一人でも遊ぶようになり、人が相手、自然が相手、誰かと二人、みんなと、集団の中で誰かと…と本当にたくさんの遊び方、人との関わり方がありますね。浅見さんが好きな中孝介さんの歌に接して、私もまた、CD買ってみようと思ったり世界が広がりました。
本当に、距離感も様々。それぞれの人が色々な距離感で接してきても、こちらもそれに違和感無く溶け込んだり、距離を置いたり自由自在にできる社会が目の前には広がっています。
「一生支援という紐をつけて、紐の範囲で
人とあったり、買い物したり、旅行に行ったり、それが精一杯ならそれでもいいけれど、そこから外れることができる力があるならば、そこから外れて自分の思うままに生きて欲しい。
仕事がんばったり、ランチ奮発したり、県外に出かけてご褒美のパフェ食べたり、旅に出かけたり、そんな自由のある暮らしを講座で関わったお子さんやこれまで関わっているお子さんにも満喫して欲しい、とブログを読んで更に強く思いました。
「治る」を押して押して押していきます。