私の12月は短い。
年末には恒例の地球金魚合宿@南の島があるからです。
というわけで、少しずつでも大掃除しています。
その中で今年6月直販の皆様に送ったニューズレターが出てきました。
半年経ちました。
ここで自分で出した疑問にこのときより答えが与えられてきました。
つまりこの半年でまた花風社は新たに知見を積んだと思います。
皆様はいかがでしょうか。
貼っておきますね。
よかったら今もう一度考えてみてください。
コメントも歓迎いたします。
ASDは治ったほうがいいのか? 浅見淳子 2019年6月
こんにちは、花風社の浅見です。今回は「ASDは治った方がいいのか?」というテーマでニューズレターを書きます。
このテーマを考えるきっかけになったのは二つの方向性からです。
まず一つ。支援者たち(ギョーカイ)がいかに「脳機能障害で一生治らない」と言い張ろうと先端医療、基礎研究の人たちは「治らないか?」と研鑽を重ねていて、その途中経過が耳に入ってくるようになったこと。
あと一つは、6月9日で初めて岩手で行われた花風社の講演会での学びです。
若い当事者の方「みるさん」が「自分が花風社講座をきっかけにこんなに元気になったから故郷の盛岡でも講演会を開きたい!」と手を上げてくれたことをきっかけに全国の皆様から何十万円も志をいただきました。その結果、経費を差し引いてもみるさんの口座にはお金が残ることになりました。あまりに大金なので花風社に送金するとみるさんが言ってきたのですが、それも筋が違うと私は言いました。そしてそのときにごく自然にこんなことを思ったのです。「これはみるさんに寄せられた寄付なのだからみるさんの口座に入れておけばいいのだ。みるさんは悪い事しない。だって自閉っ子だもの」と。
そう。私は「自閉症を治しましょう」とか言っているけれど、自閉的特性の何もかもが悪いとは決して思っていないのですね。そのりちぎさとか誠実さはいいところだなあと思っているのです。
では私が自閉症の何を治したかったかというと、『NEURO 神経発達障害という突破口』の巻頭漫画にあるとおり、最初にニキさん、藤家さんに会ったとき、一緒に働く上で「不便だなあ」と思ったあの4点ですね。すなわち、1 感覚過敏 2 睡眠障害 3 ボディイメージ 4 季節の変動に弱すぎること の4点です。この四つの問題を解決してくれる人を求めて、本を作ってきたのです。
そして神田橋先生や愛甲修子さん、栗本啓司さんや灰谷孝さんの本を出した今、この四つはすべて解決できるものになりました。今では花風社の愛読者の間では、この四つは治っていくものだという実感を共有できるようになったと思います。そして、この四つが治ると情緒面や社会性の面での一次障害も治っていく。身体アプローチをやってみた人にはそれが実感できていると思います。
それは、身体がラクになると脳がラクになって、それまでできなかった課題がこなせるようになったり、自分が取り組むべき事が見えてきたり、あるいは友だちに関心が出てきたり、全体にパフォーマンスのレベルが上がるからです。
そしてDSM-5で「発達障害=神経発達障害」と再定義されたところからも、自閉症は神経の発達の障害なのだとわかりました。ならば運動や栄養が大切なのは当たり前でしたね。
と、ここまでは花風社の本をそれなりに読んできてくださった方々にはおなじみの話ですね。
ここからが新しい気づきです。
ASDに関する身体の問題は、解決してきました。それに伴って、というかそれに必然的に伴う情緒面の難しさも解決してきました。
でも身体アプローチ=言葉以前のアプローチの効果に気づいている人はまだ少ないですから、世間には困った特性を抱えた「ありのまま」で暮らしている成人ASD領域の人たちがいます。支援ギョーカイの「ありのままでいい。社会が理解すればいい」という言論を真に受け自分側から社会に寄り添う努力を放棄し、飼い殺しの就労支援に甘んじていたり、家でネットばかりやっている実生活のない人たちです。その姿を見て私たちは「やはり自閉症はそのままにしておくと大変なのだ」と思ったりするわけです。では彼ら彼女らの何が「治った方がいい」のでしょうか。
なんとか治したい、と頑張っている基礎研究の人たちは、自閉症の何を治したがっているのでしょう? たとえばオキシトシンの効果を研究している人たちは、表情が豊かになることを改善のインデックスとしているようです。そして東京大学では自閉症マウスを作り、自発的な運動が常同行動を減らすという研究結果を発表しました。
でも、表情が豊かかどうかと自閉症にどれくらいの関連性があるのでしょうか。また常同行動は確かに自閉症の診断基準に入っていますが、大人になって常同行動を保っている自閉症の人はそれほど多数派ではないような気がします(とくに高機能群において)。
結局基礎研究の人たちも、自閉症の社会性について何が困る点であり、何を治した方がいいのかそんなにしっかりつかんでいないのかもしれません(つかんでいるのかもしれませんが)。そして自閉症の人の何が困るのかわかるのは、私たちのように自閉症の人に攻撃されたりしている人なのかもしれません(詳しくは拙著『自閉症者の犯罪を防ぐための提言』をお読みいただけたらと思います)。
以前九州の某県にニキ・リンコさんと二人、講演に呼ばれたことがあります。そしてそのときに、こんな話を聴きました。現地に当事者でお医者さんという女性がいる。その女性は今日、寝込んでいる。なぜかというとニキさんと浅見が大嫌いで、その二人が地元に訪れることに大変ショックを受け寝込んでいるのだと。
ニキさんや私が嫌いでも、地元の人が二人を呼びたいと言って講演会を企ててしまうのは仕方のないことです。いやなら来なければいいだけです。講演会などというものは、来たい人だけが来ればいいもののはず。でもそこで不幸になってしまう。それだけ「自分の思い通りにならないと気が済まない」。昨今、私はこれが自閉脳の一番不便なところではないかと思うようになりました。
私が最初にお付き合いした自閉っ子であるニキさん、藤家さんには、こういうところはありませんでした。あるいは、思い通りにならない場合のストレスのかかり方は定型発達者より大きいのかもしれませんが、少なくとも育ちの良さからそれを隠す慎みがありました。ところがこれを抑制するマナーもなく、「自分の思い通りにならないと気が済まない」という特性を全開させてしまうと、社会では著しく疎まれることになります。他人の自由を尊重できない人は世間で嫌われて当たり前なのです。
そして、これこそが自閉の人のメンタル面で、「治しておかなくてはいけないところ」ではないでしょうか。
そのためにどういう方法があるのか、皆さんも考えてみてください。私にもまだ、確かなことは言えません。
言葉以降のアプローチで誤学習を防ぐというのも、大事なことでしょう。けれども言葉以降のアプローチの限界は、私たちが見てきたものでもあります。
翻って他人の自由をきちんと重んじられる自閉症の人もいます。そういう人たちはたしかに、マナーを教えられているのですが、マナーだけの問題でもない気がします。
一つ私が今持っている仮説は、五感+二覚でどれだけ「気持ちよい」経験を積んだか、それによって自分が心地よくなれる状態を知っているか知っていないかが鍵を握るのではないかということです。
自分に受け入れられないことがあっても自分が心地よくなれる状態に戻る習慣がある人は、それほど他人を思い通りにしようとはしない気がします。
そのために子どものうちにやっておくことは、やはり徹底的に身体を使った遊びを楽しむことであるような気がします。
皆さんはどう思われるでしょうか?
花風社としても、これを今後の課題にしていきたいと思います。