「発達障害は一生治らない」と決めつけず、試行錯誤する仲間の交流サイトです。ご自由にご活用ください!

仕事と他者

そういえば、「仕事のお部屋」を作ったとき、浅見の仕事観も書くと言っていてそのままになっていました。
それが図らずも、昨日大阪講演のレジュメを作っていて、今度の講演では私の仕事観を披露することになるなあ、と思いました。

「発達障害と仕事」の話をしに行く座波さんと一緒の講演なのだから、それもふさわしいかな、と思いました。

https://karadamental.com/free/20200113

おそらく上記の大阪の講演に来る方は、浅見がどう仕事というものをとらえているかを理解することになると思います。
それが皆さんの人生の参考になるかどうか、浅見の仕事観をどれくらい採り入れるか・採り入れないかはもちろん皆さんの主体性によるところが大きいわけですが。

座波さんのプレゼン資料が送られてきて、それはそれは濃い内容なのですが
前座の私に当日与えられたテーマは「治ってほしいと思っていいんですよ 神経発達障害という突破口」です。
なぜ治ってほしいと思っていいかというと、一言で言うと神経発達障害だから、なんですけど(詳しくは『NEURO』をお読みください)

ここに至るまで15年かかっているわけです。
NEUROが出たのが去年。2019年。
その15年前というと2004年。赤本こと『自閉っ子、こういう風にできてます!』が出た年です。

赤本からNEUROまでの15年間。
そのときどきの問題意識に基づいて本を出してきました。
中には「刈り込まれた路線」もあります。具体的に言うと感覚統合とか。
でも感覚統合を経たことは決して無駄になっていない。いわば「統合」したのです。
そういうプロセスをもお話することになるでしょう。

そしてその時々の課題がありました。
赤本の頃は「いい子」タイプしか知らなかった。
だから「治ってほしい」と思うのは「本人たちの苦しみを取りたい」がメインでした。今もそれは変わらない。今度出る『知的障害は治りますか?』はとくに本人たちの苦しみを取るための本。そして今回北は岩手南は沖縄から大阪に集う人たちの多くが「本人たちの苦しみをどうにかしたい」と思っていらっしゃるでしょう。
けれども本人視点だけでは済まないのが仕事の場面です。
なぜなら仕事は、座波さんの『発達障害でも働けますか?』

からの言葉を借りれば、他者評価だから。
自分が「できている」と思っても、他人から見て「できていない」のならできていない。それが仕事というものです。

そこで、私の言葉で言う「迷惑当事者」
座波さんの資料にある言葉を使わせてもらうと「厄介なハッタツ」の存在と対峙することになります。
「治そう」に2種類できてきたわけです。
いい子の苦しみを治そう、と、迷惑当事者の迷惑性をどうにかしよう、と。
障害者の人権が~ときれい事をなぞっているだけの人たちに花風社が評判悪いのは、建前を取っ払ってしまって「自閉っ子はいい子も悪い子もいるよね」「悪い子はいまいち社会に受け入れられないよね」ってはっきり事実を言ってしまっているからですね。
そして親の立場からすると、将来自分でご飯が食べて行ける人に育てるには「迷惑当事者」や「厄介なハッタツ」と評されるような育て方は決定的にまずいわけです。
だったらそう育たないようにするには?
それにはまず、身体をラクにしてあげようよ。彼ら、相当身体つらそうだからまずそれをどうにかしよう。
これが身体アプローチの原点です。

もっともすでに確立された迷惑当事者、「厄介なハッタツ」の方々が自己責任で迷惑当事者をすることに花風社は異議を差し挟んでいません。堂々と迷惑当事者をやればいい。自己責任で。
花風社は迷惑当事者に関しても社会に情報を提供します。「どうしたらそういう人に対応できるか」「雇わずに済むか」。それも「発達障害を社会に理解してもらう」活動だと考えています。
「偏見だ!」と言われようと、花風社もずーっと迷惑当事者に迷惑をかけられているわけですので、こちらから見ると「偏見ではなく事実」となります。

支援ギョーカイが当事者保護者からのクレームを恐れて言わないこういう本音をなんで私が堂々と言うかというと
座波さんが言う「仕事は他者評価」に加え
私は「仕事は他者貢献」であると思っているからです。
そしてハッタツの世界より社会一般の方がずっと広い。
ならばハッタツギョーカイ受けを狙って建前のきれい事を言うより、「いいハッタツと迷惑なハッタツがいる」ということ、そして「いいハッタツになってもらうためにはまず身体をラクにしてあげましょう」ということを伝えた方が他者貢献だと思っているからです。
選挙のときに地元の土建屋を儲けさせるために熊しか通らない道の建設を約束する。
それがギョーカイの言う「社会の理解」です。
日本国全体の利益を考える。
それが私の言う「社会の理解」です。

『自閉っ子と未来への希望』に書いた通り、私は仕事とは基本的に受け身のものだと思っています。

受け身だから天職なんです。callingなんです。
そして基本的に、仕事とは自分のためではなく他者のためにするものであると考えています。
まず他者貢献があって、その余録として自分の楽しみがある。
他者貢献が先。
それが私の仕事観です。

私が迷惑当事者に迷惑をかけられたのは完全に受け身でした。
それに対応して裁判を起こすという手段に出たのは私の主体性の発揮でした。
なぜ裁判に踏み切らなければいけなかったか。それは支援者たちがあまりに無力だったからでした。
でもそのおかげで「当事者の一部は迷惑である」「支援者は無力である」と堂々と言う権利を得たと思っています。私は犯罪被害者なのですから。

いい子の自閉っ子たちにも会い、迷惑当事者にも遭遇してきた。
去年の炎上では凡医療群はとことん軽蔑するに値する存在だと理解した。そしてそこに依存している障害に甘えた人たちもいるとわかった。その人たちは完全に置き去りにしてよいことを理解した。
炎上もつねに受け身。
でもそこで何を学ぶかは私の主体性です。

そういう私が15年間に出してきた本たちの連なりが「治ってほしいと思っていいんだよ」と言う結論になりました。
大阪でお会いできる皆様、どうぞお楽しみに。

7 COMMENTS

こより

私にとっての子育ては、母子一体の胎児時代から母子密着の乳幼児期を経て、児童期青年期をかけて、自立と自律を目指すことでした。発達障害の子ども二人を自立させたことをすばらしいとお褒めいただくことがありますが、どんな子どもでも成長する力があり、育とうとする力を周囲が封じ込めなければ、働く大人になることはそれほど難しいことではないと思っています。

先入観で子どもの能力を低く見積もることが、あまりにも多いです。目先の成長に一喜一憂せず、子どもの資質を見極めて子どもの妨げにならないことだけ心がけていたことや、子育てを自己実現の道具にしなかったことが、我が家の子どもたちの自立によかったのかもと思います。

私は親でしかなく、親としてできることをしてきただけですが、親が支援者、評論家、傍観者になることで、子どもにとっては「親の喪失」につながり、成長の妨げになることが多いように思います。

以前母子家庭の子どもの育ちについての記事を読みましたが、「母子家庭では母親が父親不在の穴埋めをしようと頑張るあまり、(父親もどき)の存在になってしまうことがあり、それは時に子どもにとっては(父も母もいない家庭)になってしまう。その代償はあまりにも大きい」とありました。

親が親以上のことをしようと努力することで、親不在の家庭になっているお宅が多いように思います。

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みる

こよりさん
みるです。アットマーク国際高校品川学習センター2年生です。

先日の大阪での講座ではどうもありがとうございました。

自分にとって、特別支援の世界での日々より今の方がずっと自分の為になっています。
勉強や就活ももちろんですが、一見社会的に意味がなさそうな遊びや趣味からも学ぶ事が多いと感じる日々です。
なのでこよりさんのコメント、身に染みるほど共感できました。

また今年も他の所でお会いする事があるかもしれませんがその時はどうぞよろしくお願いいたします。

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フィリア

今日はめちゃめちゃ、よい一日となりました。勿論学びは更に多く今も余韻にふけり、すぐに実行に移せる事や、長期計画を頭に描いてみたりしています。しゃべれますが、書く事は苦手なので、この辺で失礼いたしますが、関西地区に来てくださりありがとうございました。

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みる

フィリアさん
みるです。アットマーク国際高校品川学習センター2年生です。

先日の大阪での講座ではありがとうございました。またどこかでお会いしましょう。

手短かですがこちらでもよろしくお願いいたします。

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XIA

他者評価こそ、「客観(的)評価」そのものですよね。
他者評価は、客観評価。
つまり、自分でできていると思っても、できてないこともある。
そして、その逆もあるから、チャレンジしてみたらいいと思えます。
治る・治すは、自己評価も交じりますが、逆に他人から見て治っていても、自分が不満なら治ってません。

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