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凡医・凡医療従事者を観察するお部屋

不思議な振舞い・言動をする凡医及び凡医療従事者がたくさんいます。
オモシロい発言があったら集めておきましょう。
医療とのつきあいを考える参考になるはずです。

51 COMMENTS

ブルー

正確には凡医まわりの話ですが、今後、自分が生きていく上での教訓として。

あの裁判の地裁の判決ですが、正しく文章や文脈を読めない人が多数いることが分かりました。国語力の問題もあるのかもしれませんが、私がよく言う「パラダイム」の作用で文章や文脈が読めなくなっている人々です。

例の判決ですが、(クラスタ各位はみなご理解されている通り)ワク推しか反ワクかは関係がありません。薬害も関係ないし、科学的かトンデモかも関係がありません。

原告の訴えは

「そんなこと言ってないでしょ」(※意訳)
「言ってもいないことを拡散しないでください」(※意訳)

です。皆様ご理解されている通りです。で、判決は

「原告はそんなこと言っていなかったです」(※意訳)

で、原告勝訴です。

繰り返しますが、ワクチンは判決(の構造)とは関係がないことがポイントです。論点ではありません。ところが「あの裁判官は反ワクを勝たせやがった」という不満分子が大量発生しています。

繰り返しますが、判決(の構造)にワクチンは関係がなく、論点ではありません(←2度言った)。ところがそういうパラダイム・・・「反ワク憎し」でこの世を見ているので、国語力以前に認知の段階で歪みます。

現代のSNS環境はこういう状態であることを踏まえなくてはならないことを改めて認識しました。

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シア

こんにちは。
底辺の凡医と呼ばれる人たちがさかんに「反ワク」だの「反マスク」だの活動していたのは承知のとおりです。
それは彼らにしてみれば「反医療」と言うことなんでしょう。
そしてこの「反医療」と言う考え方は手を洗うタカさんと言う方の発言で真意が明らかになります。
彼は「それが医療の総意です。」と言う発言をされていました。
「医療の総意」なるものに「反する」から少なくとも凡医療従事者にとっては『敵』となってしまうのです。

しかし凡医療ではない人たちはさかんにワクチンの危険性を訴えた偉い先生もいましたよね。
また良心からマスクの有用性に反対された医師もいます。
この人たちにとっては「医療の総意」というものは存在しないかのようです。

「医療の総意」と言うものがあるのかないのかと言えば『ない』ですね。
何故なら反サロとか反マスクとか反ワクと表現されてきた医療者もいるわけです。
医療に「総意」があったらそういう人はいないはずですからね。。
そして「反」○○というのは「反」総意・それも反医療の総意と言いたいのでしょうけど医療の総意が「ない」と言うことが理解できていれば「反」○○は意味のない表現だとわかりますね。

凡医療者たちがこの「医療の総意」があるがごとき発言を繰り返すその理由は何でしょう?
そもそも学問の世界では「総意」なんて表現が不適切だと言うことが判ります。
「○○学の総意は私の意見だ!」なんてことを言ったら図々しいと言うかバカです。
手を洗うタカさんはそういう意味で間違っていると言えます。
そもそも医療は医学に基づいていて医学と言うのは学問の一派です。
そのため「総意」なんてものがあるはずもなく…医学の総意とか医療の総意とかまたそれに反するなんて考え方はおかしいのです。

自由な言論とか自由な意見とか主義主張と言う世界を知らないか学び損ねているのかもしれません。
そのような医療の構造は知りませんが偉い先生が「医療の総意」なるものから外れているのをみると…様々な経験や実績を経て凡を超えられてきた方と推測することができようものです。

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yasu

シアさん

ここで言われている「医療の相違」というのは、単純に査読制度のある国際ジャーナルに掲載された論文に書かれている内容という意味です。論文に書かれたことを引用していれば、巨人の肩の上に乗った気分になれるということでもありますね。まぁ論文に興味がある人であればともかく、こと医学にかんしてはあまり気にする必要はないと思いますよ。

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yasu

すみません、相違ではなくて「総意」でしたね、失礼しました。

科学の本質は多数決ではありませんが、医学は半分以上は科学ではないので、多数決がものを言うことがあるという単にそれだけです。ハードサイエンスから見たら医学というのは格下ですし、学位の格も下に見られますよ。

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yasu

補足その2

「医療の総意」を考えるにあたって、意外と意識されていないものが2つあります。
それは、「出版社」と「検索サイト」です。

●出版社
2012年、数学界を中心に「学会の春(Academic Spring)」という、オランダにある大手出版社エルゼビア(Elsevier)社への論文投稿、査読、編集ボイコット運動が展開されました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E7%95%8C%E3%81%AE%E6%98%A5

この話は数学者であり作家でもある藤原正彦さんのエッセイにも取り上げられていますが、学術ジャーナルの購読費用が高騰し、学問の発展を妨げていると主張する一種の抵抗運動です。ちなみにこのエルゼビア社というのは学術出版界の超巨匠であり、ここに嫌われたら学術活動に多大な影響が出ます。つまりは首根っこ掴まれているわけです。科学的な新発見も、治療法の確立も、論文化されて広く広まらないと知りようがないし検証もできません。このように学術活動や学問の進歩は、特定の出版社(の意向)に大きく左右されているという構造があることは意識しておく必要があります。

●検索サイト
最近はずいぶん名前が知られるようになりましたが、米国医学図書館が提供するPubMedというツールは医学系論文を検索するための事実上の標準データベースになっています。収録は1946年~となっており、論文を書く際に関連文献を探すのにはこれがあれば普通は事足ります。使用は無料です。

”ほぼ全ての”雑誌が網羅されていますが、完璧ではありません。どのような雑誌を収録するかはやはりサイト運営者の恣意が働きます。身近な例で言うと、オーソモレキュラー医学界の公式雑誌(Journal of Orthomolecular Medicine)は登録されておらず、PubMedから検索することはできません。Googleで経験されている方も多いと思いますが、検索で引っかからないと”存在しない”ことになって、人の目に触れる機会は減少しますし、信用度が落ちるという問題があります(Google Scholarでは検索されるようですが)。内容云々以前の話として、こういった業界標準のプラットフォームに載っていないこと自体が不利ですし、ここでも採択の可否は主催者側が握っています。

新型コロナについては、ワクチンに疑問を呈する発言は検索で引っかかってこない、否定的なデータを掲載した論文はジャーナルに掲載されない(あるいは査読に長大な時間がかかる)という問題が指摘されていました。データを出して論文を書くところまでは研究者の仕事ですが、そこから先にこういった構造があることを踏まえた上で、「医学の総意」とかを言わないといけないですね。

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シア

こんにちは。

医学が劣った世界とは思いません。
相対的に格下の人が多いと言うことで近年撲滅されてきた病気も多いからです。

熱心に情報を探っていれば得られない情報が少ないでしょう。
昔より情報が得やすいです。

しかし多くの仕事をしている人が「ネットやジャーナル」にこの情報は載っていないだろうな…と言うのは肌で感じると思います第一線で活躍している人の最新情報はネットに上がってきません。

その時代にダイレクトに怒っていることを直感で感じるためには「何が語られて」「何が語られていなくて」その理由はどこにあるのだろう…という文脈から物事を読み取る国語力が大事だと思っています。

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シア

yasuさん

「医学の総意」この医ネタです。

https://twitter.com/mph_for_doctors/status/1780527761352016333

しかしこの方はオオゼキさんと言う大家の方が医薬品危険性を示すのにHLAアレルの論文を出していてその説明を大学病院でも読まれているのに「非科学的だ」と言っていたポストもあったしほとんど周囲の人に胡散臭いと思われているのかもしれません。

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yasu

シアさん

このpostは読みました(笑)
お医者様同士でやりあっている様子ですけど、まあ「見解の相違」なのかもしれませんが、ワクを打たれる側の価値判断に医師は介入できないんですね。それはハッタツでも同様ですね。データや論文がこうなっているから(つまり、総意という奴です)オマエはそれに従えという傲慢さが嫌われるんだと思います。

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シア

ブルーさん

内海氏は『お薬の止め方』を体系的に考えられていました。
その方法に従ってペースを守っていくとお薬から離脱できるように工夫されていたと思います。

確かにそういう優れた知見もあるものの氏が多方面に思い込みからか不用意に発言して突っ込まれている様子を目にします。

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ブルー

シアさん

>『お薬の止め方』を体系的に考えられていました。

これが氏の能力の輪の範疇にあるものです。氏のコミュニティはここに賛同する人々です。ここで踏みとどまって欲しいのですが・・・。

>多方面に思い込みからか不用意に発言して突っ込まれている様子

ここは氏の能力の輪を超えた領域です。氏の悪評はここから来ています。

自らの能力の輪が見えない、もしくは分かった上で踏み越えて、結果として一般人から総突っ込みをされているタイプの専門職については、私個人は危なっかしくて頼ることができません。

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yasu

「一芸に秀でる者は多芸に通ず」というのはあって、そこそこ大きな集団では実例も観察できます。会社内の話ですと技術で入社して今では法務の専門家とかですね。

地頭の良さと言ってしまえばそれまでですけど、事象の根底にある共通要素を掴めるか否か(無自覚であることも含めて)あたりが分かれ道ですかね。外から見ると、ひとつの事業で好業績を出してブランドを確立し、そのブランド力で他業種へ展開するようなものでしょうか。こういうのはユーザー側から見ると厄介なことがあります。これは株式投資や選挙(政治家や政党のマニフェスト判断)を考えればご納得いただけるかと思います。

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ブルー

yasuさん

往々にして一般の人は

「一芸に秀でる者は(全員)多芸に通ず」

と思っているフシがあります。()の中が間違いです。とりわけやらかしがちなのがノーベル賞受賞者が専門外の発言をしたときです。情弱マーケもここから来ています。

>事象の根底にある共通要素を掴めるか否か

特に上達の勘所、及び当該の種目と自分の適性の判別といったあたりは、掴むのが上手な人がいますね。どれをやると自分に合っていて、どうすれば上達させられるか。

私が見かけた日本人だと、全日本ジムカーナドライバー&工学博士&創業経営者(海外で起業)という人がいました。なんだかこの人は自分を超上達させる特殊能力を持っている印象です。いつでもゾーンに入る技まで編み出していたような。

仰る通り、こういう感じの人は世の中に時折います。

パラレルキャリアの分野だと、大学教授かつオペラ歌手、という人を見かけたことがあります。

医者の場合の究極は、なんといっても手塚治虫さんでしょうか。あとは武術の達人だと空手の宇城憲治先生ですね。あの方はエンジニアかつ社長です。

また学生の例だと、高校3年までずっと運動部に没頭していて勉強していなかった男の子が、浪人して猛勉強して難関大学(往々にして私文ですが)に受かることがあるのもそうですね。

こういう男の子もまた、上達の共通項を身体で掴んでいる様子です。特にスポーツの大会と一般入試は勝負事の本質が同一ですから、そこを無意識に身体で掴んでいるのではないかと予想します。

他方、ダメ系の医クラは社会科学の分野でそもそも上達努力をした痕跡がなく、単純に医者の論理を社会に当てはめているだけですから、これだけ世間からバッシングされているわけです。

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ブルー

(※ヘリクツの追伸)

多様な分野をものにする人がいたとしても、それは全てその人の能力の輪の範疇ですね、考えてみると。バフェットの言を借りると、輪の大きさが極大です。そういう人たちは。社会の指導層には往々にしていますね。確かに私の勤務先のハイスペの人達にも、ちらほらいます。実行機能のモンスターみたいな人までいます。

しかし、どこかの医クラみたいに世間から総突っ込みをされている場合は、輪の大きさに関して自他の認識がズレていますね。

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yasu

いやいや、ノーベラーでも、まさにその専門分野でも継続して良い成果が出せるとは限りませんよ^^; 理由はいくつかあるんでしょうが、学問は進歩しているのと、指導を請われる立場になると研究に集中できなくなるというか、他のものに興味が広がる(笑)んでしょうね。めずらしい話ではありません。

自分自身を他にアピールするにおいては、「一芸に秀でるものは多芸に通ず」を振りかざして輪が大きいように見せるのが、自分ブランド最大化の点では正しいです。もっともこういうのはちょっと付き合えばたいていの人はわかって上手くかわすんですが、かわすのが上手くないと被害を受けることがありますね。

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ブルー

>ノーベラーでも、まさにその専門分野でも継続して良い成果が出せるとは限りません

→そうですねぇ、そもそも受賞の対象論文がかなり昔のものだったりしますから、それ以降から今まで何をしているかは人によると思います。

>かわすのが上手くないと被害を受けることがありますね。

→輪を大きく見せる人は確実にフォロワーが増えていく時代になりました。例え気づいて離れる人が多くとも、新しく入ってきて檀家さんになる人が確実にいるので喰えるというわけですね。

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yasu

ブルーさんとのやりとりにも関係するので、コメントの形でアップします。

Xで下記のようなpostがありました。
https://x.com/3FcgL/status/1779284336686268793

現実問題として(分野に依るでしょうが)ここまで頭が固いわけではないように思いますが、「データ無しで可能性だけ論じる」のは嫌われます。

先日、大学関係の集まりがあったので参加してきました。諸先輩方では遺伝子関係の仕事をしている人も多く、大部分が基礎研究に携わっているので、例のワクチンについて色々と尋ねるのには絶好の機会でした。DNAの混入やゲノムへの組み込み懸念を理解するには、医学というよりもワクチンの物性や生物学の知識が不可欠ですし、仕事で医学に関係していなければ忖度は無いので、客観的にどうなのかの話が聞けると思ったわけです。

数人と話しましたが、SNSでそのような懸念が上がっていることを知っていた人は1人だけ。私の話はすぐに理解されたものの、結局のところは実験(観察)してデータを取ってみないとなんとも言えない、それが無理であれば多数の人間が不調を来す等で騒ぎにならないと本気で取り上げられないだろうとのことでした。リスクはあくまで定量的に評価されるべきで、接種のメリットが仮にゼロであってもそれは変わらないと。

どこにどの程度、どれくらいの時間に体内に留まるか、それがどうリスクに結びつくのかについては(医学に携わっていない人からは)ずれた指摘もありましたが、話の核心部分であるDNA混入リスクについては、数字を出してみないとわからず、数字が無いと議論はできないということで皆さんの意見は一致していました。※ここでいう「数字を出す」というのは、サンプルが潤沢に配られて全世界の研究室で独立してデータを出すことを指しています。

これは研究者としては正しい態度です。医学系の学会がワクチンの安全性について声明を出していますが、生化学や分子生物学のような基礎系の学会は私が知っている限り何ら声明を出していません。これはデータが無いとなんとも言えないから黙っているのでしょうね。

医薬品の開発はその国の総合的な科学力が問われると言われますが、それはまさに様々な専門分野の知識を総合する必要があるからです。そしてこれはモノを作り出す力だけでなく、使い方や使用後のフォローアップも含みます。一人の超人(?)がいても薬はできないというのもよく言われますが、それはこのような事情から来ています。

なので、医薬品に関しては、多芸に通じている(ように見える)人が言うことも、そのまま鵜呑みにするのは危険どころか単なる無謀ですから、各人でご判断することになりますね。査読済論文や専門家の助言の守備範囲は思っているよりも(かなり)狭いのです。

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浅見淳子

yasuさん

私はワクチン打たないと決めてたので、いわゆる反ワク本は読みませんでした。興味はありましたが、時間が有限である以上他の本を読みたかったのです。宮沢先生の本は読んだけど、あれはウイルスというこういうときでもなければ興味を持たない事象のことをアクセスしやすく書いてくれたからで、ワクチンを打たない理由を探して読んだわけではありません。私にとって打たないという選択はゆるぎないものだったので、誰か権威の裏付けを必要としなかったのです。

でもワクチン打つ打たないにせよ、発達障害治るか治らないかにせよ、多くの人は自分の選択を肯定してくれる権威あるいは情報通の裏付けをほしがり、それをしばしば科学者に求めるのだけど、科学者としては厳密な手法の末に出した結論しか提示できないということなのだと思います。

そういう科学者が大事にしている厳密性とか、あるいは小児科医があくまで医療ギョーカイの利権仲間から外れないように決して推薦以外のことができないとか、反ワク本をどういう人が書いているかとか、反ワク本を書いた人の政治に対する発言とか、打ってよかったと言っている人がいるのならその人の属性とか(医療従事者かどうか、病弱かどうかなど)総合的な判断が問われるので、それこそそこは国語力なのだと思いました。

その国語力を発揮していただくときの一材料として、花風社の本やこのサイトはあるわけで、信じられないなら信じなくていいよ、なのですけど、そもそも国語力を発揮できない人にはそれがわかりにくいのかもしれません。

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シア

社長。

ここでの国語力というのは語られていることの他に「なぜか語られていないこと」を見出したり行間を読むというそこから大人の事情を察していくような読解力だと思いました。

できるだけ具体的に考えていく癖があるとそれぞれの事例のどこが端折ってあるのかと考えるようになります。
個人的にはそれは見たものを聞くときにどういう情報が抜けているかと言う経験からも得てきているだろうと思います。

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シア

続きます。

Yasuさん
科学の一般論は一般論で正しいでしょうが個別の事例には光が当たらなくなってしまいます。
それが「ここで語られていないこと」になるだろうかと思います。

そして医療がテーラーメイドであるべきときにギョーカイのマニュアル対応や標準医療・凡医の出る幕ではないと言うのが発達障害界隈の治るなのではないかなと思います。

ブルー

https://naosouhattatushogai.com/all/conference-room/489/comment-page-78/#comment-12044

↑雑談のお部屋のこの記事の続き。これは凡医部屋に。

先日、心理系の恩師と久しぶりに会話をした。最後にお会いしてから10年は経過していないが、それに近い年月が経過していた。当時お世話になった、高弟さんの近況も伺った。

タイムリーなことに、恩師は内海氏が最近発表した技術体系「精神構造分析」を自分の対人援助に取り入れていた。恩師が取り入れるくらいだから、役に立つのだろう。

リンクを張った雑談のお部屋では、内海氏の食事&栄養理論が友人を助けた例を挙げた。そして今回は恩師の仕事も助けたわけだ。内海氏はこのように専門分野では見るべきものを持っている。

(※なお、氏は発達障害分野に関しては大多数の医師同様、一般的な事しかご存知なかったように記憶している。

特に当事者にとって最も重要な標準的発達(及び運動発達)への言及がほとんど印象にない。ソリューションが出せないので、あの通り発達障害概念そのものを否定しにかかったと解釈している。ちなみに私は氏の本がどうも読めないので、以上は間接的な印象論であることに注意されたい)

しかし政治経済分野の発信となると、浅見さんが最近このサイトで述べているようなご様子とのことである。

■偉人たちの言葉

ウォーレン・バフェットという投資家は、こう言っている。

「自分の能力の輪の大きさを正確に見極めること。輪は小さくても構わない。輪の大きさより大切なのは、輪の大きさを正確に見極めることだ」

また、「ビジネスマンの父から息子への30通の手紙」という本の著者、ウォード氏は、息子にこんなことを教えていた(※書籍から大意を引用)。ウォード氏は公認会計士であるが、監査人ではなく起業家として成功した人である。

「ある分野で成功したら、そこに留まること。成功の山は一つ一つが厳しく険しく、そして高く、何よりもそれぞれの山が遠く離れている。何かに成功した人が、自分は万能だと思い込んで他の山へと挑み、失敗するケースが後を絶たない」

資本主義社会で活躍する起業家や投資家は、自らの能力の限界を正確に見極める努力をしている。裏を返すと全能感に警戒心がある。

■能力の輪を踏み越えたがる

私は以前から、対社会への発信が凡医化する人&ダメ系医クラに対して、自分の能力の輪が見えていないのではないかと思っていた。そしてそういう人達は、医師免許に全能感を感じて酔っぱらっているのだもと思っていた。

しかし逆に、自らの能力の輪が見えているからこそ、輪の向こうへと踏み越えたがるのかもしれない。

医学の輪を踏み越えると、つまり病院や研究所の外に出れば、そこには社会科学のフィールドが広がっている。そこでは文系や芸術系の知見と感性が必要である。つまり凡医やダメ系の医クラが最も苦手とする社会知と人間知、言い換えれば教養のフィールドである。

専門分野では見るべきものがあるのに、対社会への発信になると凡医化して情弱マーケティングを始める人々はもったいない。医学分野、つまり能力の輪の中に踏みとどまればいいのにと思う。

そもそも彼らは、自らの能力の輪が見えているのか、いないのか。そしてそこにあるのは不全感なのか、全能感なのか。そのあたりに何か本質的なものが隠れていそうである。

■余談:医師国家試験に公民科目を?

これは余談。

社会知が弱いタイプの医クラをみていて思うが、もう少しだけ、文系学問の基礎を勉強して欲しい。ただし難しく考えることはない。中学と高校の社会科目(=地歴公民)から始めればいい。特に医クラは公民科目(政治・経済・倫理)のヌケが非常に目立つ。

これを解決するために、例えば医師国家試験に公民科目を入れるのはどうだろう。特に社会保障関連の問題には必ず禁忌肢を混ぜる。あるいは中小企業診断士試験のように、分野別に足切り基準点を設けても良い。社会保障関係の点数が低すぎる人は、他の分野が例え満点でも即失格にしてはどうか。

医クラには自らの給与の出処が分かっていない人が散見される。そういう人を医師国家試験の段階で不合格にすれば良いと思う。

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