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私が愛読する花風社の本

花風社の本の中でお気に入りのもの、お気に入りの理由、何を学べたか、どんどん書き込んでください!

106 COMMENTS

yasu

ポストコロナの発達支援論、読了しましたので感想をアップロードします。

2020年3月から臨時休校がありましたけど、あの時点ではジュニアマスク警察はあまり多くありませんでした。あの頃は新コロがどんなものかよくわかっておらず、世の中もピリピリしていてマスクやティッシュ類が品不足になったり、アベノマスクが配られたりと結構大変だったはずですが、臨時休校を非日常としてちょこっと喜び、ほぼ毎日公園に遊びに行っていました。公園ではマスクをしている子もしていない子もいましたが、マスクについて特段五月蠅くは言われていませんでしたね。

がしかし、今時点では新コロについて様々なことがわかっており、治療の手立てもあるにもかかわらず(ワクチンや治療薬がどれほど意味があるかはとりあえず置いておきます)、子どもたちの世界は窮屈になったように思います。公園ではマスクを着けていないとマスク警察に注意されるというので、うちの子は公園に遊びに行かなくなってしまいました。

なぜこんな変なことが起きているかというと、それは「大人の態度」のせいですね。新コロはしょぼい風邪に過ぎないとか、風邪にちょっと毛が生えた程度のものとか、各人いろいろな解釈があるでしょうけど、家庭内でどう接するかは各家庭で自由にコントロールでき、普段通りの生活をするようにしている家庭も多いはず。療育とかでしたらそれでOKなんですが、新コロ騒ぎの場合は学校や世の中がいろいろな制約を押し付けてくるところが始末に悪いわけですね。シカトできるところはしても、どうしても対応せざるを得ない場面もあるんで。これは全国どこでも生じている深刻な問題であり、これを背景にしてこの本が執筆されたと理解しています。

子どもへの影響で一番大きいのは、やはりマスクですね。単純にうっとおしいからイヤだと、それだけで避ける理由としては十分だと思うんですけど、この本では問題点について系統立てて説明されています。改めて知識を得ると共に、学校や行政と交渉する局面になった場合にも使えるのではと思いました。

学校や社会がこういう状況なので、程度はともかくすべての子どもがなんらかのネガティブなストレスを受けているのは確実です。この本ではそれらをアセスメントして対処する指針がたくさん紹介されていますので、我が子の状態を見る上でのヒントになるでしょう。世間や学校をコントロールすることは難しいですし、もちろん「マスクをする自由」はあるので、それぞれの家庭が置かれている環境に応じて対応していくしかないのですが、各家庭ごとに自分たちの「あるべき姿」はどのようなものなのかを一度考えてみるのも有用かもしれません。

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たにし

「言葉のない子と、明日を探したころ」

この本を、浅見さんからプレゼントしていただきました。
ありがとうございます。

この本は、1982年に出版された本を、花風社さんが2005年に再刊されたものです。

真行寺御夫妻による、息子の英司さんの子育ての記録。

今から40年前の記録ですが、我が家も同じ道を進んできていて驚きです。

2歳の頃にコミュニケーションが消え、その後、沢山の困り事が出現。
親を親とも認識せず。
行方不明になり警察のお世話になること何度も。

しかし、真行寺御夫妻も、我が家も同じことをしてきました。

言葉どころか、声を出すこともなくなった息子、唯一、泥団子遊びの時だけ声が出ました。
英司さんも、ある遊びの時には声が出てた。
同じだ。。。

感情的に叱り、そこで初めて「ごめんなさい」の言葉が出た。
これも同じ。

そして、少しでも、興味を示したり、感情に刺激が与えられるよう、いろんな場所に行き、いろんな経験をしながら、試行錯誤。
ホントに同じ道を歩んでいます。

方法は変われど、やること、やるべきことは。いつの時代も同じ。

大人になった英司さん、社会人として活躍し、親孝行されたそうです。

骨惜しみせず働く人は、どの時代でも重宝され、豊かな人生をおくれますね。

先人の御努力と知恵が伺える良書です。

浅見さんがこの本を贈ってくださった御意図がよくわかりました。
お気持ち嬉しいです。

本書プロローグで、浅見さんが、真行寺英子さんとお話しした時に印象に残った言葉をいくつか挙げておられます。

最後に、そのほんの一部分だけ御紹介。

「楽になりましたよ。とうてい今のようになるとは思えなかった。無駄なことは一つもありませんでした。」

浅見さん、ありがとうございました。

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ふうこ

こよりさんの著書

「支援者なくとも自閉っ子は育つ」

に書いてあった小さいうちに手をかけておくと後が楽というのを最近少しずつ実感しております。(後といっても息子はまだ5歳なので後というには早いかもしれませんが)

息子は1歳半頃になると急に遊べなくなりました。物を並べたり車の車輪を見つめるなどのあるあるな遊びはやっていました。

並べる遊びが悪いとは思いませんでしたが夢中になってやってるなら「今度はこれ並べてみる?」など親子で楽しめそうだけど息子の場合は「別に楽しくないけど、僕にはこれしかないから。。。」といった悲壮感漂う雰囲気で仕方なくやっているように見えたのでこれは何とかしないと!と思い息子の遊びを広げるための取り組みが始まりました。

部屋の隅っこで紐にS字フックを引っかけて流したり1人で粘土遊びをし息子に見つかって止められては片付けるといったことの繰り返しでした。後は一緒にクルクル回ったり毎日外に連れて行くなどしました。(ちなみにその頃は散歩しようと思っても家の外周をひたすらまわるだけで終わり、公園に行っても入り口付近の10メートルくらいの空間をうろうろしておしまいでした)

そんな日々を過ごして少しずつ息子の遊びは広がっていきました。遊びの中にはお手伝いに直結しているものもあります。

息子は割とお手伝いをしてくれますが、多分息子の中では遊びの延長になっているようです。

育児論などで同様の事を言っている人はいましたが、障害児育児となると後がラクになるよと言っている人はいわゆるギョーカイ本ではあまりないんじゃないかと思います。(と言っても息子1歳9ヵ月で自閉症疑いと言われてからABAなど勉強し始め2歳になるあたりには花風社などにたどり着いたのでリサーチ不足ではあります。)

息子が1歳後半の頃はさてどうしようかと思い、とにかく当事者の意見を参考にした方がいいだろうと思い自分なりに色々調べてまとめた結果

・運動大事!
・食べ物によって不調になる
・自分達にわかりやすく説明してほしい

の3点にまとめられたのでそれを元に動いた結果が少しずつ未来に繋がっているような気がしています。

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ふうこ

補足

当事者の意見を参考にする際は成功している当事者の体験談しか参考にしませんでした。

小さい頃はこんなに大変だったけどこんなによくなったよ♪という体験談しか見ませんでした。

こんなに辛いんです!わかってください系のものはほぼ見ませんでした。

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yasu

花風社の新刊『医者が教えない発達障害の治り方』、について感想を述べさせて頂きます。

就学するにあたり、就学相談とそれに続く就学先の決定が一大イベントであることは多くの方が同意されると思いますが、最大の関心事のひとつに支援学校や支援級に就学した後、転籍で普通級に入れるのかということかと思います。これは多くの凸凹児の育児期や専門家が書いた書籍(一般向けに出された啓蒙書)で触れられており、転籍できるとするものと難しいとするものが混在していて、結局のところは自治体とその学校(間)の裁量に依るところが大きくて、明確な基準は恐らく無いのだろうと思っています。転籍は難しいと述べている本でも、それではどうしたらよいのかまでは触れられておらず、言いっ放しの感じは受けます。

既に多くの方が指摘しているとおり、早期診断や早期療育の効果は言われているほど大きなものではなくて、家庭や本人にかかる負荷の大きさを考えると言われたことを全て受け容れるのは割に合わないと思うのですが、そこを結構無理して(仕事辞めるとか)支援者の提案に従ってしまうというのは危険である、というのを明確に指摘してくれており、まずはここを理解した上で次のステップを考える、というのはごもっともと思いました。

そもそも早期診断や早期支援も何か基準があって理路整然と行われているわけではなく、評価は雑でフォローアップも適当、保護者に対する提案も各家庭の事情や保護者の意見を入れた上で行われているわけではなく、子どもや家庭の将来に大きな影響を及ぼすような決定打として相応しいかというと、とてもそんなレベルには無いです。冒頭の漫画に出てくるベルトコンベヤーは、支援側が理路整然と用意したというよりは、保護者側が敢えて協力することでこうなってしまっているという、いわば「肉屋を応援する豚」といった要素はあるのではないでしょうか。まずはそこを認識することが第一歩でしょうか。

第二章以下が本体となるわけですが、「普通の子育てって何?」という向きにもわかりやすく解説されています。療育のスキを埋めるという考え方ではないので、人によってはこの部分は注意が必要ですね。「アセスメント」というのは療育の専門用語なので、それを家庭でやるということが療育の延長線上だと解釈される方がいるかもしれませんが、それは違いますので。

未就学から就学のところで医療や行政と対峙しなければならなないため、くて、行政の判断と異なる道を選択する場合は、それなりに手間がかかりますし、あまり愉快ではない体験もすることになるでしょう。(書類の書き方一つとっても、「何コレ?」というのはあります)

凸凹児の育児記で、医療も療育もきっちりやっている家庭の親が書いたものは、ほぼ例外なく学校(集団)生活から逸脱していること(友だちができないこと含む)を心配して書かれています。一方でこよりさんの本はそのようにはなっていないこともよくご存じかと思います。就学を迎えるにあたり、親は学校生活の逸脱をまずは気にする、就学前にクリアされていればめでたしめでたしだが、そうでないと支援側との対峙はなかなか大変になる、というのが、現状かと思います。

支援側の対応も地域差や人によって違ったりもしますが、特に医療側がどのような姿勢を持っているのかの知識取得や理解は不可欠です。これは行政の対応とつながっているので、実際に学校とやりとりしたり行政ともつながりのある医師が書かれたものを読んで、相手の考えを知っておくことも必要だと考えます。

「オレ達は子どもに対して福祉を提供してくれと望んでいるわけではない」、というスタンスは、そう本気で思っているのであれば支援側にもっと主張すべきですし、支援側も自分たちが提供している内容が実は福祉なのだというのを理解していないので、支援側とも話し合いができるのであればした方がよいとは思いました。

未就学から就学へ進むにあたり、イヤでも支援側と色々関わることが求められますので、それに対する応援の書として読ませていただきました。

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ブルー

<自閉っ子と未来への希望  浅見淳子 著>
~読書感想文かつ推薦文~

●この本を一言で言うと:

⇒今の花風社の基本思想・・・だと私自身は感じました。
 自分が働く成人当事者だからです。

■象徴的なタイトル

書評だというのに、いきなりアンチの話で恐縮ですが。

あるアンチのツイッターでのつぶやきを見たとき、私は深い納得感(?)を覚えてそのスクショを自分のPCに保存しました。すでにその時は、6万字に渡るアンチ考察を終えた後でした。

あるアンチ:
「希望とか未来とか、
わざわざ大声で主張しているときの内容はたいていクソみたいなものだ」

主張している側が大声なのか、はたまたこのアンチの脳内でハウリングを起こしているから大声に聞こえているかまでは分析していません。

ともあれアンチと言えば絶望です。そしてアンチに限らず絶望している人は希望が嫌いです。

また、発達障害の世界において
「希望とはぬか喜びであって障害受容ができていない証拠であり、トンデモへの一里塚」

と思っている支援者を見かけることもあります。そういう人は必死に希望を否定します。

絶望と希望は両方とも人間の感情で優劣はありません。どちらの感情を選ぶかという選択の問題です。そしてこの「消費者の自由選択」を嫌う人も多くいます。

そういう点で、この本はタイトルからして読者を選別します。何も発達障害の当事者だからといって、みんなが暗い顔をしているかといったらそうではありません。私のように明るい未来を希求している人がこの本を手に取ります。

■自閉の人を社会人に

この本の副題は「一緒に仕事をしてわかった本当の可能性」です。

この本は自閉の人がいかに社会人として機能していくかということがコンセプトになっています。そして定型の人と自閉の人で、いかに対等な社会人としての絆を築いていくかということも。(P.24)

そしてその視座は民間人という立場からです。著者の浅見さん曰く

・徹頭徹尾民であり、民であることに誇りを持ってきた(P.164)

とのことですが、これは私と共通です。

私の職業観の根底にも「民間人(=官ではない)」「実務者/産業社会に生きる人」という基本指針があって、それは新卒の就職活動の頃から、いや大学入学当初から変わりがありません。

そして私はいろいろと紆余曲折があっても社会人としての機能向上を諦めたことがありません。

障害者なのだから、例えば職場において定型には機能面で、あるいはパフォーマンスで勝てないのだ。そう思うのが多分世間の常識です。

しかし私は今の職場に来てから、常に定型の人・・・それも優秀なハイスペの人達と比較し、なんとか勝てないかとずっと思案し、試行錯誤を続けてきました。多分今後もずっとそれは続きます。

これは多分、私の特殊性かつ強固なこだわりです。ただ同時に当事者は自分の上達や発達を絶対に諦めない人も多いので、その点では当事者あるあるとも言えます。

つまり民間人という視座にこだわる事と、社会人としての機能向上というコンセプトが、私とこの本との共通点です。ということは何が起こってくるか。

同じ帰結に至るのです。

■帰結が重なる

私が花風社の本を読んでいる理由は、辿り着いた帰結が同一だからです。この本を読んでいくと、私の体験世界及び辿り着いた帰結が言語化されていく感覚を覚えます。

「あ~そうそう、それだそれだ」
「言語化して頂いてありがとうございます・・・って10年前にはもうできていたのだな」

という感覚です。

この本の出版はこの書評の10年前ですが、書かれている内容は今でも普遍的で色褪せません。自閉の人の体験世界を理解するための基本が書かれています。それは定型の人にも有益だし、自閉の人の自己理解にも有益です。

そしてリクツよりも自閉の体験世界がどのくらい言語化されているかが、私が理論体系や論文及びエビデンス、そして専門家の発言と技量を判定する基準になります。

そういう点で、この本は初めて花風社の本を読む人の最初の一冊目でも良いと思いました。最初の一冊といえば赤本「自閉っ子、こういう風にできてます!」なのですが、この本は花風社の歩みと、そのプロセスで分かってきた自閉の人の帰結を知ることができます。

私自身は当事者が生きるにあたり、理論よりも帰結の方が重要だと感じています。発達障害は新しい分野なので理論は常に発展途上ですが、帰結は普遍的です。「結局そうなってしまう」からです。

ですので人生をサバイバルする際は、理論より先に帰結を抑えてしまうことが重要だと思っています。

そういうわけで自閉の人の帰結を記したこの本は、そのまま花風社の自閉理解の基礎を表明するものであると思いました。

■未来への希求

またこの本には、こういうくだりがあります。

・藤家さんを救ったのは未来への希求だったのです。(p.224)

藤家さんだけではなく、私を救ったのもまた未来への希求です。ロスジェネかつハッタツと若干珍妙な人生でしたが、私は人生で希望を失わずにきました。いつも私の中には明るい未来がありました。

私は絶望にさっさと見切りをつけます。絶望に絶望しているのです。先のない絶望に留まるのはムダという感覚を幼い頃から持っています。もちろんつらい時や暗い顔をしている時代もかなりあったのですが。

私にとって絶望というのは例えていうなら入り組んだ住宅街の袋小路のような感覚です。もしも袋小路に来てしまったら、引き返して新しい道を探せば良いのです。ずっとその袋小路でしゃがみこんでいる必要はありません。

そしてハーバード大学の研究によると、希望という感情は絶望の後にしかやってこないのだそうです。つまり私は絶望そのものにその都度絶望し、その後に明るい未来を希求することを繰り返してきたのです。

■希望を与える本だけを

最終章では花風社の出版についてこのような宣言があります。

★一つだけ誓います。希望を与える本だけ出していきます。(P.253)

この宣言は2011年になされましたが、その後10年、今に至るまで貫かれています。当事者は自分の発達を絶対にあきらめない人が多いです。そういう人達への宣言だと感じました。

この本は自閉の人を理解したい人にも、自閉の人が自分を改めて言語化し、顧みるにも有益です。そして花風社が目指していること=自閉の人が社会人になること=をどう考えているかということを述べている点で、花風社の基本思想書だと思いました。

希望を求めるすべての人に、そして花風社とはどういう会社なのかを知りたい人の「最初の一冊」としてもお勧めします。

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シア

今愛甲さんの本を読みなおしています。
きっかけはラジオを聞いていて「自分にはわかりにくいと思う本こそ読まなければならない」(大意)という放送があり花風社の本でよくわからないと思ったのが愛甲さんの本だったからです。
どちらかと言うと身体アプローチのようにやってみたら治る…と言うのではなくもうちょっとむつかしい内容に思えたんです。
「脳みそラクラクセラピー」と「愛着障害は治りますか?」を読みなおしました。
平易な文章で社長と愛甲さんの対談であることから読みやすいはずなのです。
治ると言うことのニーズ・横方向の関係性の課題・普通へのこだわり・愛着の土台などなどありましたが具体的に「自分一人で何ができるだろうか」と考えたときやはり自分で選ぶと言うことの大事さとか(これは中学生の時に先生に言われた話ですが)「俺は俺」と言う風に自分軸を持つことなどです。
人と横の関係を築くのは今から始めたら大変だと思います。
しかしそうはいっても一人でできることもあると思いなおし自分で選んでみようと思ったんです。
自分の成育歴や生い立ちから人間関係は課題が多いと思いますがそれでもそれはそれで手を付けられるところをまた見つけてやっていこうと前向きに考えられました。
あとやはり私には内容がなぜかむつかしくそれが課題を表わしていると思えますが読み返すうちに以前とは違ってわかってくることや目につくことが増えてきています。
匍匐前進ですがそういった人間らしさも身に着けていけたらなと考えています。

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ヨヨ子

廣木道心さんの「発達障害脱支援道」読みました。

わたしは30代になって精神病院への入退院を繰り返したのち発達障害という診断がついたので、子供の頃から発達障害だと診断されたお子さんやそのご家族の生活は想像するしかありません。
しかも、発達障害の世界にいたのはほんの数年で今は発達障害者というよりも精神障害者として生きています。

そういう立場で読んだ1番の感想は、「発達障害の世界も精神障害の世界も似たようなものだなあ。」でした。
P58の、「いい先生に巡り会っても、先に死ぬ」は、「いい精神科医に巡り会っても、先に死ぬ」に置き換えられますし、P86の閉鎖的な空間よりも支援者の行動をちゃんと証言できる目撃者が多い場所の方が安全ですというのもモロに精神科閉鎖病棟に当てはまることです。
閉鎖病棟の看護人は明らかに外来の看護師と患者に対する態度違いますから。
なので、精神障害の方にもお勧めしたい本です。

あと「暴れる人の行き着く先」は、実際に閉鎖病棟で拘束を受けた身からすると、「精神病棟の隔離部屋はもっと酷いとこありまっせ」でした。
例えば私が入院していた閉鎖病棟の隔離部屋は、入った経験のある人の証言や時々検査のために出てくる隔離部屋患者の様子からすると、部屋は真っ暗・拘束中は剥き出しの便器に用を足すどころかオムツだったみたいです。
また私自身が隔離部屋でない部屋での拘束(←こういうケースもあります。6人部屋で1人だけベットの周りのカーテン閉めてベルトつけられるとか。他の患者がカーテンをまくるので「見ないで!」って言ってる女性もいました)を受けた時は、拘束されるとすぐ点滴で向精神薬を入れられたので鉄格子越しに渡されるご飯を食べることすら出来ませんでした。

大変なことになる前に治しましょう。
大変なことになってもさらに大変なことになる前に治しましょう。
発達障害知的障害も精神障害も。

以上です。

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ヨヨ子

昨日上に書かなかったことです。

書いていいのか?書けるのか?と思いつつ、昨晩10数分に及ぶ円盤の気功の末、書けば良かったと思ったことです。

「発達障害 脱支援道」には親が治さないと最終的にどうなるかの症例が書かれています。
そこに全くなかったものを書きます。

治らないと親の死に目に会えない可能性があります。

私がそうでした。
私の場合は精神科医と就労支援員によるダブルパンチのせいで父が危篤の際病院に行けなかったからなのですが、暴れる自閉っ子も同じ目に遭うと思います。

私もその時初めて気づいたのですが、現代人が亡くなるのがほぼ病院でしかも夜中が多いという以上、夜間に病院に行けないと親の死に目に会えない確率が高くなるのです。

大人並みに大きくなった暴れる自閉っ子を真夜中に病院に付き添ってICUに連れて行ってくれる人はそんなにいないと思います。
そういう人のいる家庭は日頃から疲弊しているでしょうから母親や兄弟姉妹が連れて行けるか怪しいですし、他人がそこまでしてくれるかというと・・・

私も寄り添って病院や葬儀場に連れて行ってくれる人なんて親戚にすら1人もいませんでした。
まあそれは、私の親戚たちが冷酷無慈悲なのではなく、精神科医や支援員の暴挙や投薬のせいでこうなったんだと周りに言えなかった(こんなこと言ったらこっちが頭おかしいと思われますから)がために、私の当時の状態がかなり酷いことを説明してなかったからなんですが。

人工呼吸器つけるために喉を切って話せなくなった父が残した自由帳に書かれたヘロヘロの私の名前を見た時から、精神科医数名と支援員数名は私の親の仇になりました。
しかし我が国では仇討ち制度が復活する気配はないので頭の中で打首拷問レイプ(以外自主規制・日本では脳内で何をしようが法的にシロ)以外ありません。
治さないことを勧めた医師達だって、治さなかった結果こんなことが起きても死んだふり確定でしょう。

治したくない親は、死ぬ前に子供の顔見たくないんでしょうか?
不動産買って家賃収入で暮らしていけるようにしてあげても、一生暮らしていける財産残しても、1人でタクシー夜中乗れるか他人が病院に連れて行ってあげようと思える人柄にならないと、親の病室に駆け込める保証なんて無いのに。

まさか生死が関わる事態になればどんな状態の障害者でも誰かしらが助けてくれるとでも思ってるんですかね?
甘すぎる。

啓蒙したくらいでそんな世の中になるんだったら、神経発達障害が有名になる以前から存在する障害名の障害者はもっと良い生活してます。
バカくさい。

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シア

新刊「発達障害脱支援道」を読んでの感想となります。

旺我さんと同じく私も早産なんです。 成長によりそう言うのを取り戻していく過程でもユニークさに関しても余計学びがあると思えますし大変です。 経験でそのような豊かさがある一方で福祉はどうしても囲い込みがあって社会とスプリッティングしていると言うのが「やはりそうだったのか」と言う思いです。 かつては社会参加がむつかしいから「理解」を求めていましたがそれらの啓発活動よりも自分自身が社会参加しやすいように変わる方にエネルギーを注いだ方が有効だろうと思います。 そして治らなくても困らないでしょ?と言うのでは福祉の人もお世話が大変になるはずです。 当事者も伸び悩むではだれも幸福になりません。

※私が強調したいこと↓↓↓

「どういう風に生きたいか」考えた時当事者としての実感ではデイケアの生活はただみんなで動画を視聴するだけだったりトランプをするだけでつまらないし刺激もなく発達もしづらかったと思えます。 「なるべく利用しない・お世話にならない」でいるだけでより良質な時間を過ごせているのが実感なのです。 私は福祉サービスで受ける訓練も「福祉から離れてから役に立てようと思って」主体的に選んでいました。 地道な訓練を主体的にするためにも福祉以外の世界を射程に収めることが当事者には必要不可欠に思えます…しかし現実には福祉は社会とスプリッティングしているのです。 私はこのホスピタリズム(施設病)の処方箋は広い世の中に出て行って実際に体験することだろうと思います。 その導き手は親御さん以外にいないのが現状なのかもしれません。 

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座波

廣木道心さんの『発達障害 脱支援道 笑顔と自由に満ちた未来のためにできること』読み終わりました。

軸と無意識の賢さと臆病さの相関についての連想があれこれ浮かんできました。

発達障害があろうと、身体障害があろうと、子育ての本質は変わらないこと、土台は障害対応ではなく子育てであることを改めて確認させていただきました。土台ですから子育てにヌケモレがあると障害対応もうまくいかなくなりますよね。そして子育ての本質とは何か、それは、社会の一員になること、であると思いました。

僕は「成長すると身体が大きくなって力が強くなる、子どもも作れるようになる、この2つをコントロールできないままでいいはずがない」と本や講演でお伝えしてきましたが、これができないまま年齢だけ大人になることが廣木さんの言う「大変なこと」にも通じると思いました。
そして、それは不可能なことではなく、それも方法は1つだけでなく、さらに誰かがどこかが独占している方法でもなく、親ができること、誰かに任せることなく親が取り組むことなのだと思いました。

お子さん二人抱えて、収入が半分以下に、1/3に、なんていう決断に迷いがなかったはずはないと思いますし、決断してからも後悔がなかったわけでもないと思います。
それでも振り返るとそれが最適な道に続く決断であったのは、廣木さんの武道をベースとする無意識の賢さがあったからなのですよね。
軸を整えることはこうした無意識の賢さにつながり、臆病さはなくならないけれどそれに打ち勝つことができるようになるようです。

なお、武道をしているすべての人の無意識が賢いわけではない、のは不思議です。また、軸が整わないうちにも適切な道につながる流れに乗れる人がいるのはどうしてなのか?今はこんな疑問を頭の片隅に置きながらまた学ばせていただいています。

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yasu

>武道をしているすべての人の無意識が賢いわけではない、のは不思議です

現代の武道(柔道や剣道など)はルールに従ったスポーツなので、無意識を賢くすることができないのではと思います。武術が戦いの手段として使われていた頃の技や考え方を汲んではいるのでしょうが、それをきちんと伝えられる人がいるのかも含めて考えると、質的に変わってしまっているのではないかと。子育てのルールはありませんし、ましてや目の前の子どもが何らかのルールに従ってくれわけでもないので、ルールのある武道の経験だけではあまり役に立たないのは、納得できると思っています。

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座波

yasuさん

質的変化という意味では、武道も教条化の影響を免れなかったということなのかもしれませんね。
そう考えると、初めは師匠に学ぶことは大切ですが、自分の中に疑問や方向性の違いが自覚されるようになること、結果、場合によっては師匠と袂を分かつこと、それが成長であり、決められたことをただするだけの思考停止でなかったことの証になるかもしれませんね。
ただ、それすら教条化のリスクがあるということは自覚し自制できないと、ですね。
自由連想は限りない(笑)

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yasu

座波さん

戦国時代は、それこそ真剣勝負の世界で負けたら命を落とすので、技か使えないとどんなに努力してもダメと、結果が全てだったようです。真剣勝負でなくなったところから精神面が強調されるようになったと理解しています。真剣勝負の世界では精神面はオマケというか、術をきちんと実行するための一手段だったのではと思います。

命を落とす真剣勝負の視点から見ると、スポーツは甘いというか、そもそも命を取られることがないわけですから、指導も稽古も異なったものになるだろうというのは、容易に想像ができますね。発達の世界でも、命がけの真剣勝負をしているような人は良い指導やアドバイスができると思うのですが、そうでない人たちには、アリバイ指導とか、思考停止とか、マニュアルとか、そういうことじゃないかと(笑)。

ちなみに、当事者や保護者は自分たちの問題という意味では真剣勝負なのですが、「おまかせください」の支援の舟に乗ると、それこそ大船に乗った気持ちで思考停止してしまうリスクがありますね。

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yasu

廣木道心さんの新著『発達障害 脱・支援道』を読了しました。

親亡き後に(子供に)どうなっていてほしいかをまずは考えて、そこから逆算するように今必要なものを考えていくという考え方になっていて、合理的だと思いました。子供が毎日色々とやらかしてくれたり、支援者や学校から頻繁に連絡があるとどうしても考え方や視野が近視眼的になるからです。「大変なことになる前に」というのは、近視眼的な考え方だけだと先々困るということでもあって、どう困るかはこの本の中で豊富に語られています。(支援者への丸投げや対応が投薬中心の対応も近視眼的な考え方)

身体的な問題(自害、他害)のコントロールに多くのページが割かれおり、これを解決しないとどうなるかについても詳細に語られていて、これはとても説得力がある内容だと思いました。この本を読まれて、下記の不幸な事件を思い起こされた方も多いのではないでしょうか。
https://www.nippon.com/ja/news/fnn201912121927/

世の中の方が理解すべきだという文言を自分にとって都合良く解釈していると、娑婆と大きく乖離して結局は自分たちが抱えている問題は解決しないし不利益を被ってしまうので、注意が必要ですね。ここは親亡き後のことを考える上で非常に重要であって、ここの解決することなしに親亡き後を考えるのは不可能だと思います。

発達支援の現場の実体験を元に書かれた、支援の世界の実態については、自分が持っている情報や感覚と比べて違和感はありませんでした。この部分は知識として読むのではなくて、我が子を社会参加させるにあたり、この支援を受けることが良いことなのかを考える材料として活用すべきでしょう。また学校や地域の支援センターで、この本に書かれていることについて尋ね、自分の子供が受けている特別支援についてチェックする目的にも使えるでしょう。集団の中での学びの重要性についても色々と書かれていますけど、特別支援教育は集団から離して「取り出し」で行われることが多いので、そのメリットとデメリットについて支援者としっかりと話し合うのは大切であって、そのためのツールとしても有用です。

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yasu

追伸

「せめて、暴れる人は減らしましょう」というのは、非常に重要な提言です。
下記リンク先ご覧下さい。
https://diamond.jp/articles/-/257333?page=2

”発達障害を持つ当事者は殺しても正当防衛”なんてまずいでしょう。この事件の場合は、自宅で実親が手をかけた話ですが、この先これが、”支援施設で支援者が”になる可能性だってあります。ありのままに他害を放置→正当防衛で殺害(支援者は無罪)という世界は間違っていると思いますし、暴力が生じてから対応を考えるのではなくて、そもそも暴力を生じさせないようにしないと道は無いように思いますね。

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ブルー

<人間脳の根っこを育てる :栗本啓司 著> 

私はこの本を通しで2回読みましたが、本全体がマーカーでカラフルになっています。自分にとって納得のいく記述が続くためです。特にこの本の人間観に共感できました。

栗本さんはこの本の中で「支援者は当事者を客体化しすぎていたのではないか」という趣旨のことを言っています。つまり当事者を定型の人とは違う珍妙な生き物として見ていなかったかと。

■当事者理解で重要な点

当事者の特性は見慣れないと不思議です。しかし当事者を理解するには「生き物としてのヒト」に立ち戻って考え、そこから個々の理解を立ち上げ直すプロセスが必要だと思います。

世の中に良くある、定型発達のヒトを理解することを前提にした人間観やツールでは当事者を捉えることができません。だからといって当事者を定型とは別の生き物とみなすとますます分からなくなります。

当事者のことが分からなくなると、特に発達の凹に対して対策ツールが出せません。だから治らない、となります。

当事者の私が個人的に感じるのは治らないのではなく、適用するパラダイムが適切ではないということです。だからツールが出せないだけだと思うのですが。

ではどうするか。

■当事者理解を立ち上げなおす

それにはまず「生きものとしてのヒト」という観点から、もう一度当事者理解を立ち上げなおすことだと思います。

このプロセスで使用する学問のうち中心になるものは、西洋医学(含精神医学)や心理学ではありません。これらは当事者を理解するパラダイムとしては不向きです。

学問という観点から当事者理解の軸になるものを挙げると、私自身は基礎医学的な分野が土台になると思っています。

つまり解剖学、生理学、生化学、及び生物学や、発生学及び進化に関する知識です。場合によっては人類学もです。

そういう意味でこの本では栗本さんが日常の仕事の基本としている生理学の観点を踏まえ、発生学や進化の知識も使ってヒトの発生と発達を俯瞰します。

そして当事者にどのようなアプローチをしていけば良いかを考えていきます。

またこの本は、灰谷さんの「人間脳を育てる」から比較的日が浅い段階で製作されているせいか、発達のヌケを埋めるということがかなり重視されている印象があります。つまり書籍のコンセプトが似ています。

ヌケを埋めるためのプロセスを進化や発生の考え方で、大きい視座から捉えなおしているというわけです。

■未来的人間観

現代においては様々な学問をもう一度進化のパラダイムで見直すということがトレンドになっています。

それは「進化ナントカ学」がいろいろと登場してきたことが良く表しています。ネットを検索するといろいろ出てきます。

進化心理学、進化教育学、進化ナントカ学・・・。あるいは、文明や知識そのものなど非生物も進化のパラダイムで見直してみるトレンドもあるようです。

進化のパラダイムはカッコいい数式やモデルにこそあまりならないようですが、それで現状の人類や文明を記述してみるとなかなか面白い世界が見えてくるので、いつの間にか学問の世界のトレンドになったようなのです。

またある学者さんなどは、「21世紀の科学は進化のパラダイムで統合されるだろう」とまで言っていました。

つまりこの本もまた現代のトレンドに沿った書籍であると思います。進化のパラダイムに基づく未来的な人間観を提示しているということです。

この本を読むと、それが発達障害の人に対しては有効なパラダイムの一つであることが分かります。

■具体的方法論

もちろん、この本には様々な具体的方法論もいろいろ載っています。

読者として私が助かったのは、「自分の発達のヌケは、それぞれどの段階のものか」とあたりをつけることができることです。そのため取り組みの順番を進化や発達の順序にしたがって組み立てることができました。

当事者としてはこれで希望が生まれます。

■あとがきについて

この本のもう一つの注目ポイントとして浅見さんによるあとがきがあります。ここには花風社が発達障害と向き合ってきた歴史が記されています。

このあとがきを読むと、花風社が発達障害に対して基本的にどのような捉え方をしているかということも分かります。

つまりあとがきが最も包括的な視座で書かれているので、この本はあとがきを先に読んでから本編を読んでも特に問題はないと思います。

■基本書としてオススメです

個人的にこの本は現状の花風社の基本理論を担っていると思っています。

そういう意味で

「花風社さんは『治る/治らない』でいろいろ言われているけど、論争はさておき実際にどのような理論とソリューションを持っているの?」

と思っている方は、この本から読むといいと思います。

そうやって一次情報で判断しようとする人ならこの本を必ず使いこなせます。花風社の本はそういう人が実践のガイドブックとして「使いこなす」ために書かれているのです。

その意味でこの本は基本書としてオススメです。

■おまけ:

この本もまた、ネットで書評を上げている方がいます。

<なかじまなび塾>
この場で速読して本紹介 
その25「人間脳の根っこを育てる」栗本啓司 著

https://www.youtube.com/watch?v=TwFXPLM7Eyo

動画によると、この人も療育をなさるそうです。つまりこの方はクラスタの方でもなくアンチでもなく、Twitterや5chで外野から文句を言っている人でもありません。中立な立場で花風社本を使いこなしたい人なので参考になります。

よろしかったらご覧ください。

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