「発達障害は一生治らない」と決めつけず、試行錯誤する仲間の交流サイトです。ご自由にご活用ください!

仕事のお部屋

就活、職場でのこと、将来の展望・・・。
仕事にまつわること、なんでも話しましょう。

808 COMMENTS

ブルー

浅見さん

ありがとうございます。拝読させて頂きました。

確かに上手くいっている成人当事者で、同調圧力を気に病んでいる人はいません。ただ、日本社会の特性としてよくよく踏まえていますが。

そしてそれを踏まえることはハッタツ側が社会を理解する行為なので、「社会の理解ガー」とは逆の行動でもあります。

いずれにせよ成人当事者にとって同調圧力は人生に不要なものですね。

今後とも宜しくお願い致します。

返信する
ブルー

<花風社アンチに関する考察 本編第10回>

本編第9回はこちら
https://naosouhattatushogai.com/all/conference-room/623/comment-page-4/#comment-4319

前回は、自他の切り分けの失敗例でした。今回は、違うパラダイムの切り分けの失敗例です。

■違うパラダイムの切り分けに失敗している人々

連載第8回で、花風社の本を読んで分析した専門職を取り上げました。ああいう人は違うパラダイムの切り分けができています。

よって違うパラダイムをある程度理解でき、恐怖が発生しません。結果として花風社に総論として反対であってもアンチにはなりません。

ところが、専門職アンチはこれができない人がちらほらいて、違うパラダイムへの恐怖を超克できません。

以下、2つのパターンを俯瞰します。

■専門職アンチのパターン1. ~読んでいない~

花風社の本を読んでいないアンチは、切り分け以前にそもそも何もしていないですから、違うパラダイムが怖いままです。

彼らはなぜ花風社の本を読まないのでしょうか。ここで、ある専門職アンチ同士の会話を見てみましょう。

●専門職アンチの会話

専門職アンチA 「花風社の本を読んでみようかな」
専門職アンチB 「やめとけやめとけwww」
専門職アンチA 「読んでも、私は大丈夫」

なぜこの2人は、花風社の本を読むことをためらうのでしょうか。「読んでも、私は大丈夫」とはどういう意味でしょうか。さらに、もう一人の専門職アンチの例を見ます。

■専門職アンチのパターン2.~全否定するために読む~

専門職アンチCは、「芋本」と、「治るが勝ち」「NEURO」を読んでいました。結論から言うと、全否定するために読んでいます。

★芋本
「対話形式で読みにくい」と不満を述べます。評論家的に読んでいるからです。神田橋先生が仰る通り、花風社の本の対話形式は、自分の事として読む人には分かりやすく、評論家的に読む人には読みにくいのです。

そして自分の専門分野と違うパラダイムなので、「?!?!」となっていき、理解不能になっていました。そして「あんな間違いだらけの本は読んでもらいたくない」となっていました。

しかし正確な実情を言うと、理解する程には深く読み込みたくないのです。

★治るが勝ち

この本については、以下のように述べていました。

「前半は、反医療の連中が信者を医療から引きはがすロジックダー」
「後半は、『NEURO』と似たようなものダー」

この2冊も全否定するために表面だけ読んでいます。本の切り分けができる専門職は、「治るが勝ち」のロジックの組み立てまで丁寧に追っていました。そして、ロジックの何段階目まで納得できるか、どの段階からは納得できないかを切り分けしていました。

しかしこのアンチは切り分けができないので全否定です。

★NEURO

NEUROに関しては以下です。

「ABAの曲解ダー」
「神経は全身にあるからどうのこうの」

you tubeでNEUROの書評を上げている人のほうが余程意味をとってしっかりと読めています。参考までに動画をあげますが、この方はクラスタでもアンチでもありません。これが一般的な人の読み方です。

参考:なかじまなび塾:この場で速読して本紹介 
その39「NEURO 神経発達障害という突破口」浅見淳子 著

https://www.youtube.com/watch?v=Dkd3TKxU7hM

このように専門職アンチCは、何冊かの表面だけを読んで全否定しています。なぜしっかりと深く読み、意味を取りたくないのでしょうか。

■「読むと洗脳される」

専門職アンチは、花風社の本を読んで、少しでも賛成点があると、もうそれでトンデモに引きずりこまれると感じています。つまり、花風社の本を本気できちんと読むと洗脳されると思っています。

冒頭の専門職アンチAの「読んでも、私は大丈夫」というのは、「私は読んでも洗脳されない」「トンデモ堕ちしない」「だまされない」という意味です。

専門職アンチCが、花風社の本を表面しか読まないのも同じです。彼らにとっては、「異教の経典」に対して部分的にであっても、理解したり共感することがもう恐怖なのです。

つまり各論賛成ですら怖いのです。彼らの中では「各論賛成=トンデモに足を取られた」ですから、深入りをしないようにして、全否定するような読み方をせざるを得なくなります。

■専門職アンチの本の読み方

専門職アンチは、自分が本を読む時に、0か100か・・・つまり、全部賛成か全部反対かという読み方しかできません。

それに対して、本の内容の切り分けというのは、例えば「40%賛成、60%反対」とか「70%賛成、30%反対だが、ある一点については決定的に反対なので、70%は分かるが、総論としては反対である」というような読み方です。

つまり、本を前にして自分のアタマで考える読み方です。

ところが、とにかく専門職アンチは花風社の本に必死で0点をつけたがります。そして、花風社の本の読者は、みな盲目的に本の内容に100%賛成している、キモい信者と思っているのです。

だから「あんな間違いだらけの本は読んでもらいたくない」となります。

これは自分が本を読む際には100%賛成で・・・つまり切り分けをせず「自分を洗脳するように」本を読む癖があるので、他の人も「間違った知識をアタマに刷り込むように読む」と思ってしまうのです。

■試験勉強の影響

もうお気づきかと思いますが、これはおそらく試験勉強の影響です。彼らは国家資格や学歴を得る際に、目の前の教科書に100%賛成して暗記を行って受かったと思われます。

その後の資格の更新も同様です。彼らは自分の専門分野の本や論文に対しては、100%賛成して暗記していると思われます。つまり自分で自分を洗脳するようにして読みます。

そして、それ以外のもの、例えば別の専門分野や、「エビデンスがない」などとされたものに対しては「0%賛成」となります。
(※細かくは「エビデンス」「論文」に対しても「100%賛成」という具合です)

このように、専門職アンチは情報処理の仕方が、0か100かのデジタルです。

教科書に対して内容を切り分けた上で、「教科書にはこう書いてあるが、このポイントについては、私はこうは思わない。別のアプローチができるかもしれない」ということをできる人は、かなりの知力です。

自分のアタマで考えて、教科書を健全に疑えるからです。
(※エビデンスに対しても同様です)

しかし、専門職アンチはそこまでの知力ではありません。事例にも挙げた通り、そもそも本を切り分けて読むということをしません。だから異なるパラダイムの切り分けに失敗します。

■学んだことを健全に疑えない

勉強は基本的に、賢くなるために行います。ただ例外として、学べば学ぶほどアタマが弱体化する条件があります。

それは、自分が今学んでいること、あるいは過去に学んだことを健全に疑えないことです。学べば学ぶほど、自分のアタマで考えない癖がついていくのです。

学んだことを健全に疑えないということは、当然過去の専門知識のアップデートもできません。専門知識に関して、「先着1名様」となります。

■恐怖はむしろ増す

いくら花風社の本を表面だけ読んで全否定しても、「異教徒」への恐怖はかえって増加していきます。

なぜなら彼らにとっては「0%賛成の本=まったく理のないはずのもの」を信奉する人々が増える風景・・・つまり意味不明なキモい風景を見せつけられるからです。

第8回でも述べたように、本の意味を深く取って内容の切り分けができれば「自分的にこの主張は納得がいかない」「各論に賛成もあるが、総論は反対」という具合に、異なるパラダイムを切り分けて理解できます。結果として恐怖も発生しません。

■まとめ

ここまで述べたように、自他の切り分けと、異なるパラダイムの切り分けに両方とも失敗するとアンチになります。

それは自分のフィールドに理解不能の一団が侵出してきたように感じるからで、結果として深層心理下で恐怖が発生し、反射で否定的言動が出るからです。

また、この2種類の切り分けのうち片方でも上手くいけばアンチになりません。

専門職は、往々にして仕事の範囲に発達障害も含むので、花風社が自分のフィールドに入ってきます。そのため花風社に対して自他の切り分けがしにくい場合があります。

そこで、異なるパラダイムの切り分けができるどうか、つまり自分の専門分野以外の知識についてどう対応するかが問題になります。

これはアンチになった専門職とならなかった専門職について、花風社の本の読み方を比較すると今回の記事のようなことが分かります。

今回はここまでです。次回は以前予告していた通り、「執着の理由」です。

返信する
浅見淳子

ブルーさん、みんなが何かと行動を規制されているときに豪華に二回どどんとありがとうございます。アンチの考え方が雑なことは気づいていました。たとえば彼らは私が福祉を全否定していると思い込んでいますね。実際には「福祉は治らない方が儲かるから治すモチベーションはわかない」という仕組みを『発達障害、治るが勝ち!』で説明し、家での取り組みの大切を色々な本で説明しているだけなのですが、「福祉から切り離して家庭に閉じ込める」とか誤解する。その思考回路の大雑把さを今回の連載は説明してくれたと思います。またお返事ブログ書きますね。ありがとうございました。

返信する
ブルー

浅見さん

コメントありがとうございます。

仰る通りで、読み方や考え方が雑だからアンチ化している側面があります。

第10回の内容は、専門職アンチが知識や理屈を振り回す割に、今一つ賢く感じないのは何故か、ということを扱っています。

あれ?そんなに雑な情報処理で、どうやって国家資格受かったの?

え?大学院出たんでしょ、なんでこんなに雑に文章読んでるの?

という所を掘り下げるとこうなりました。

多くの専門職が情報のアップデートが出来ないのは浅見さんも仰る通り、専門職内の情報流通の問題等もありますが、情報を受け取る側の問題もあります。

それを今回で扱いました。

いつもありがとうございます。

返信する
ブルー

連コメ恐縮です。参考までに。

↓この方もやはり仕事の局面で、読解力不足の人々に出会うことがあるとのことでした。

★ツイッターで「クソリプ」を返す日本人多数  大半は読解力不足

https://news.livedoor.com/article/detail/17887273/

この記事の中で、特に私が注目するのはここです。最後から2つ目の段落です。

>現代社会はオープン化が進んでおり、異なる分野の知見をうまくミックスしていかなければ新しいビジネス領域を開拓することはできません。

⇒こういうのは、学びの観点からは「越境学習」とも言われたりします。分野を横断して学ぶことは特にビジネスマンの学びにおいて、現代のトレンドとなっています。

発達障害に対する時もそうですね。どうしても分野横断の学びが必要になります。

このように考えると、専門職アンチの問題もまた、現代的であるといえそうです。

返信する
yasu

面白い考察ありがとうございます。

「NEURO」の中に出ているABAの解釈が間違っているという指摘は、ツイッターで私も見ました。発言者はおそらく専門家の方なのでしょうけど、どこがどう間違っていて正しくはこうというところまで言ってくれていなかったので、間違っているかどうかも私にはよくわかりませんでしたが。ただ、「NEURO」に出ていたABAの解釈は花風社とは全然関係がないところでも見たことはありましたし、犬の曲芸だという批判も複数で見聞きしたことがあるので、私には特に違和感はありませんでしたけど。

むしろ、間違っていて問題だと思うのならば、専門家の名において、あるいは専門家集団(学会)を通して出版社に訂正を申し入れるという行動は専門家の義務なはずなんですけどね。ABAの学会だって間違った理解が広まってしまうのは阻止する義務がありますし、学会主催で啓蒙活動を行ったりするのはむしろ当然です。この専門家の方が学会に所属されているのでしたら、こういった活動も専門家の仕事であることを自覚して頂き、ABAの正しい理解と普及に努めていただきたいですね。

返信する
ブルー

yasuさん

コメントありがとうございます。

ある理由から、彼らはそこまでの事を絶対にやりません。実際、花風社がそれをされた事は過去にないはずです。

実行機能がないという見方もできますが、もう一つ別の視点があります。

これは市場の話題の終了後に、番外編で扱いますので、そちらご覧になって頂けると幸いです。

宜しくお願いいたします。

返信する
浅見淳子

yasuさん、ブルーさん、ありがとうございます。
専門家集団からの抗議は一度も受けたことがありません。
一つは彼らは匿名でなければ吠えられないからかなと思ったのですが。
連載の続きを楽しみに待ちますね。

返信する
yasu

ブルーさん、浅見さん、返信ありがとうございます。

血液クレンジング(でしたっけ?)とか、効果がないどころか危険な医療行為とされるものは学会が警告出したり注意喚起するのはめずらしくないんですが、それは相応の理由があるから学会が動くわけです。

面と向かって(実名で)抗議するにはその理由がしっかりしたものでなければならないのはもちろんのこと、専門知識に対する自信と誇り、そして社会的使命や責務といった意識が必要ですから(笑)

返信する
浅見淳子

yasuさん、なるほどです。
匿名のガーガー集団には自信も誇りも使命感も責務にたいする覚悟もないですもんね。ただ、自分たちが気に入らないことを匿名で吠えて同じようなメンタリティの当事者保護者に持ち上げられることが気持ちいいだけでやっているわけですから、無力なのも当たり前です。

誰一人リアルでは抗議してこないのはそういうわけですね。
そしてそれなりの勢力になってしまいましたしね。
そもそも一版元がこれほどの読者サイトをやっていけること自体他にはないので。

返信する
yasu

本を読まないのは論外であるのは言うまでもなく、少しだけ読んで自分の都合のよいところだけをつまみ取って、全体を理解せずそこだけ勝手に自分の都合よく解釈するという態度は、自信や誇りや使命感や責務とは対極にありますからね。もしこの状態でリアルに抗議したら恥をかくだけ。

返信する
ふるーつなっつ。

ブルーさん
考察、大変興味深く読ませていただきました。
国家試験勉強は、自分で考えるより(正しいかどうかはさておき)膨大な知識を覚えるという作業だったので納得しました。症例も出題されますが、いかに出題者の意向に沿った答えを出せるかがキーだと思います。例えば、「精神疾患で症状が悪化した人にまず何をするか」のような症例の問いは、「服薬管理について確認する」が選択肢にあれば大体それが正解でした。
また、医療職は国家試験の前に何度か実習がありますが、現場によってどうしても考えは偏ってしまいます。私はたまたま「疑問をもつことが大事。教科書も、今行っている臨床にも。」というスタンスの、良い指導者さんにも巡り合えましたが、「○○?そんなのは聞いたことがない」と自分の知らない言葉や考えを頭ごなしに否定する人もいます。
やたらマニュアルやプロトコル通りにやりたがる臨床家もいます。
そして家族も医療職である医療従事者がとても多いことも、関係しているのかなと思いました。
このように育った環境、受けた教育(含実習)、etc…で頭ガチガチ系(思考停止系)専門職が量産されてしまうのでは?…と考えました。

返信する
ブルー

ふるーつなっつさん

コメントありがとうございます。

>たまたま「疑問をもつことが大事。教科書も、今行っている臨床にも。」というスタンスの、良い指導者さん

⇒確かに、自分のアタマで考えることを伝えてくださる、優れた方ですね。

しかし、

>「○○?そんなのは聞いたことがない」と自分の知らない言葉や考えを頭ごなしに否定する人もいます。やたらマニュアルやプロトコル通りにやりたがる臨床家もいます。

⇒知識に対して「0%賛成(全否定)か100%賛成か」の反応しかできない人はどこにでもいるのですね。

>家族も医療職である医療従事者がとても多い
>育った環境、受けた教育(含実習)、etc

⇒これはどうなんでしょうね・・・。

環境に染まらない人も中にはいると思うのです。その時のキーポイントが、「違和感を感じる力」かもな、と思ったりもします。

つくづく思うのですが専門職に限らず、働く人が上達していく上で「違和感を感じる力」というのはキーポイントのように思います。

専門職アンチが、ある知識に対して100%賛成という場合、考えた上でというよりは、その知識や理論に対して違和感を感じることを捨てているようにも思います。

では、0%賛成(特に専門外の知識に)、つまり全否定してかかる時もやはり違和感を感じていないと思うのです。それは、全否定する対象に対してというより、自分が学んだ知識に対してです。

例えば、「エビデンスがないからトンデモダー」。
これはエビデンスオンリーで物事を判断することに違和感を感じてないからですよね。

違和感を感じるというのは大変な作業ですよね。自分のアタマで考えなくてはならないし、答えが出なくても悩み続け、場合によっては取り組みが長い間続いたりします。

そういう一連の作業が嫌なのかも知れませんね。逆に、国家資格があればそのような作業から解放されると思っているのかも知れませんし。

専門職アンチが国家資格を取るのは、一つには市場から離れるためです。

もう一つは、「試験に受かった後は金輪際アタマ使いたくない」からかも知れませんね。

しかし、例えば「発達障害が治った」という人々が登場すると、それは従来とは違うパラダイムですから、改めていろいろと考えなくてはいけなくなります。

そういうことがもうメンドーなのかと。

ですから「花風社コノヤロー」を翻訳すると「メンドーなことさせるな!」と言っている、という解釈も成立するのでしょうね。

連載はもう少し続きます。
今後とも宜しくお願い致します。

返信する
ふるーつなっつ。

ブルーさん
お返事いただきありがとうございます。
”違和感を感じる力”、確かに大事だと思います。常にものごとは変化していて、そのままで良いわけでなく、変えなければ退化していく一方だと思います。
ざっくりと「医療職一家であること、育った環境」云々と書いてしまったのですが、補足させてください。愛着障害があるがゆえに、”違和感を感じる力”が備わってないまたは発揮できないこともあるのかなと。特に支援職は愛着障害のある方が多い印象なので…。
医療職を選ぶ人は安定志向が多いので、安定志向の方々にとっては、変化はメンドーで拒否が強いのでしょうね。
どのみち、思考停止系か向上心のある専門家、どちらが良いのか(答えは明白ですが)見分けて取捨選択したほうが良さそうですね。この時代だからこそ。
これからも連載楽しみにしています(^^)

返信する
ブルー

ふるーつなっつさん

ご丁寧にありがとうございます。

確かに育った環境によって、個人の考え方も変わってくるでしょうね。時代や、地域や、環境、教育によっても。

また、愛着障害を抱えている支援職の話はよく聞きます。私自身は愛着障害というものを知る前から、経験で「対人援助職は自分を癒したい人が多い」ことは気がついていました。

そして、そういう人を選んではいけないことも。

仰る通り専門職の選択は我々には死活問題です。そして、選択する権利があることそのものが、もう市場原理です。アンチはそれをとても嫌います。

お読み頂き、かつコメントも頂きありがとうございます。
今後とも宜しくお願い致します。m(_ _)m

返信する
ブルー

<花風社アンチに関する考察 本編第9回>

本編第8回はこちら
https://naosouhattatushogai.com/all/conference-room/623/comment-page-4/#comment-4058

前回、アンチの根本的な心理構造=迫り来る異教徒への恐怖=について扱いました。それは以下の2種類の切り分けを両方とも失敗することから発生していることを解説しました。

・自他の切り分け
・異なるパラダイムの切り分け

これらをやれる人は、例え花風社と考えが異なってもアンチにはならないことも俯瞰しました。今回は切り分けの失敗例を俯瞰します。

■自他の切り分けができない人々

1.成人当事者

自他の切り分けが苦手な人の例としては、御存知の通り、成人当事者です。自他の境界線が薄い場合、あるいは固有受容覚があまり強くない場合、自他の切り分けが苦手になりがちです。

成人当事者の場合、「治る説」あるいは「治る治らない論争」そのものが嫌いな人が多くいます。しかしそれだけではアンチになりません。花風社の存在を知って「カルトダー」と思っても、それは一時的な感想です。

当事者アンチの言動のうち、「花風社コノヤロー」以外の言動を追っていくと、このあたりの事情がはっきり分かります。ある当事者アンチが、自他分離のできている当事者(社会でそれなりに上手くいっている)と、喧嘩ではなく、会話をしていたことがあります。

当事者アンチは、会話の中で自他分離ができていないと分からない文脈では「?」となっていました。

私は「この人は花風社以前に、自他分離できるところまで発達することが根本だ」と思いましたが、そもそも私はツイッタ―をやらないので、私の心の声はそのまま消えていきました。

2.当事者の親

それから、アンチには当事者の親が多くいます。つまり「他の家の子育てと、自分の家の子育てを分離できない」人々ですが、そういう人々に対してよく「日本人はみな村人気質」と言われることがあります。

この「他人の自由を認めない」村人気質は浅見さんもさんざん述べられていますが。

そして我々成人当事者が痛感させられることは、この「村人気質」が日本人のデフォルトであるということです。

なぜ痛感させられるかというと、暗黙のムラの掟(=空気)というものは、当事者にとっては大変わかりにくく、かつ体質的になじまないからです。

「日本人とムラ社会」は、社会科学の世界ではあれこれ研究されていることですので、詳しいことは述べません。「日本 ムラ社会」「日本 空気の支配」「G型L型」等で検索なさって頂いて、書籍などを御購読ください。

■異なるパラダイムも大嫌い

もちろん上記の人々は、異なるパラダイム=花風社の基本的考え方も大嫌いです。「治る」と表明していることも「医療や福祉、あるいは就労支援や投薬なども主体的に選択して、当事者の自立を目指していこう」ということも嫌いです。

ただ、これは総論や各論の切り分け以前に感情面の問題です。「総論が不愉快、だから各論も全部クソだ、フンガー」というわけです。結局は切り分けを失敗していることに変わりがありません。

今回は以上です。次の項目は「異なるパラダイムの切り分けの失敗」ですが、まとまった分量なので、回を分けます。

(つづく)

返信する
XIA

こんにちは。
仕事と、自己実現とかの趣味とか、いろいろやりたいことがあると思います。
若い人には、たくさん・たくさん希望があるでしょう。
ただ、やりたいことばかりやって生きていくということもできないけど、わざわざ苦行のごとく生きていく必要もないだろうと思います。
仕事をする・選ぶにしても、自分の希望とか、ある程度こういう分野には適性があるかなとか、得意が生かせる(伸びしろがある)かなとか、考えた方がいいと思いますね。
周囲の人だって、健常だろうが障害だろうが、競争もあるでしょうから、中途半端な気持ちでいると、続かないことだってあり得ます。
人間は、何でもオールマイティにできるようにはなってませんし、だから世の中が分業になっているんですよね。
働くことはただ労働・使役だとかって思ってると、それもいいかもしれませんが、そのうち搾取されているだとか、割に合わないとか、思うようになるみたいです。
多かれ少なかれそういう意識は生じるにしても、出来るだけ不本意だとは思わないで行きたいですよね。

返信する
XIA

なんと言うか、就職しさえすれば、仕事の口さえあれば…って、長く働いたことのない人は思うかもしれません。
これはなかなかわかりづらいことかもしれませんけど、新入社員の1/3は辞めていくんですよね。
自分だけは例外だということは、ないんですよね。
仕事が甘くないということは、他の人とも競争するわけですから、やっぱり適性のある人とか、その仕事が好きな人には、到底かないません。
それは覚えていていいと思います。

返信する
XIA

私も、最初の就職で、3年頑張って見よう、そう思ったんです。
でも、「根性」「やる気」を出してやってみたとしても、同僚も同じように「根性」「やる気」を出しているんですよね。
そうなってくると、実力に差が出るのに長くはかかりません。
それが「現実」なんですよね。

返信する
XIA

だから、「仕事ってこんなもん!」「どんな仕事も同じ!」と思っていて、根性とかやる気だけで何でも乗り越えられるんではないか・何とかなるのではないかと考えていたら、やっぱりそれで一度失敗したとき、仕事の選び方をちゃんとしてなかったことでかなり厳しい思いをすることになってしまう。
そういう人も多いです。

返信する
XIA

いま学生の人には、こう考えてみてほしいと思います。
得意な科目もあれば、不得意な科目もありますね。
総合的にみて、非常に優れている人材も、世の中には「たくさん」います。
ただ、自分にしかない武器も、「たくさん」ありますね。
世の中に才能のある人は、掃いて捨てるほどいると言います。
つまり、裏を返せばそれだけ才能が生かせていない人たちがごろごろいると言うわけですね。
自分に多少合わない仕事?だろうと、あんまり好きじゃない仕事?だろうと、構わないと思っていたとしたら、それはものすごく甘い考えかもしれません。
仕事を選ぶときには、あまり妥協と言うものをしないでいるくらいで十分だろうという思いがあります。
人事で働いていても、「希望で胸を躍らせている人」が何とか数年後続いているという感じでした。

返信する
浅見淳子

XIAさん

ひとつ取り決めをしましょう。
皆さんの貴重な書き込みが流れてしまうので
十二時間以内の書き込みは二つまでにしてください。
一つの書き込みが長くなるのはかまいません。
つまり、自分の手元で長く書いてから一気にあげてください。
この場合だと、せっかく治った自慢が充実しているのに新着コメントコーナーがシアさんだけになってしまって、皆さんが不便です。

よろしくお願いいたします。

返信する
XIA

承知しました。
今度こそ、ルールを守ってお見せます。
よろしくお願いいたします。

返信する
XIA

経験では、転職を考えたとき、今までのスキルや経験が生かせると言うのは、かなりポイントが高いですね。
「未経験可」とかもありますけど、経験があった方がスムーズです。
その仕事ができる下地・土台があるのは、基本的な体力は学校に通えてきたということだろうと思います。
全くイメージできない仕事とかに飛び込むと言うのは、無闇です。
だから、その職場を見学したり、情報を集めて、自分のイメージ・希望に沿っているか。
働いてみないとわからないにせよ、仕事だったらなんでもいいということにはなりませんね。
「自分が選んだ」としても、その判断をした材料・根拠・理由なりがあって、それをしていると思えた方が、厳しいなと思ったとき、あてずっぽうに進んできたのとは違いますし、就職して転職するとかそういう時にも、経験や知識が何らかの形で生かせるほうがいいと思います。
「未経験可」だから、知識や経験がなくてもそれを覚えられる~と思っても、現実にはまったくやったことのない仕事の内容では、出来るかできないかも全くの未知数になってしまいます。
そして、仮に「未経験可」だとしたって、経験のある未知数でない人の方が採用される可能性が高いです。

返信する
XIA

仕事においては、失敗をリカバリーする方法が重要のようです。
ミスをしても、それを補う方法・手段・技術があれば、失敗に至りません。
慎重に仕事をして、ミスを防ぐと言うのもあるでしょう。
しかし、数をこなせば付きまとうものなのでしょう。
ならば、ミスした時点でそれをリカバリーする方法を学び、積極的に取り入れればいい。
ミスに怯えたり、仕事を続けられなくなるということがなくなっていくのは、この「リカバリーによる失敗の無効化」と言える働きの効果があると思います。

返信する
XIA

こんばんは。
仕事で「弱点」を攻略する!
直近で出来るようになったのは、「休憩」の取り方です。
私は、過集中やこだわりもあって、休憩を取るのが下手だったと気づきました。
こまめに休憩を心がけるか、手が離せないときは、きりのいいところで十分休む。。
それは、今までより長く休む時間を作るということです。
「休めない!」は所謂「焦り」があるからで、見通しや計画などを詰めると、不安から作業をせずにはいられなくなってしまう。
しかし、「熱を出しても休めない!」とか、「体調が悪くても休めない!」と言うのは、いい仕事の妨げになります。
それなら、「休む時間を少し長くしてみる・休んで弛んで、気持ちいい!」それがわかるようになると、「休憩」でほっとしますね。
「弛む」を知らないと、実際休むタイミングとか、休憩の時間とか・イマイチ休めたという感覚もなく、疲労がたまります。
それでさらに焦りも生じて、苦戦することになってしまいます。
いい仕事もむつかしくなり・効率も悪くなります。
熱を出しても休めない!ではなくて、熱が出たら十分休む!も大事だし、熱が出る前に予防して十分に気持ちいい!身体アプローチで弛むことで、ストレスフリーに効率よく休憩が取れて、はかどるのではないかと思い、実際試したらその通りでした。
「休む」「弛む」「気持ちいい!」がわかっていないと、どれだけ休んだらいいかとかわからないし、いたずらに疲れの取れない時間ばかりかかってしまって、それがまた焦りにつながってしまっていたと気づいたんです。
これがわかってから、風船ワークとかも休憩に取り入れたり、自分のリラックス方法や「弛む」を、「気持ちいい!」を最大限に取れるようにしることにしました。
熱を出しても頑張るとか、そう言うことがなくなりました。
体調が悪かったら、むしろ休むことを優先して、弛んだり、リラックスしたり、気持ちいい!を十分にすることにしました。
疲れが取れないでいると、効率よく休憩が取れず、すぐにヘタります。
そうなると休憩も却ってこまめに取らないといけなくなってしまいます。
そういう自分なりの休み方がわかってきて、仕事に限らず日常生活の多くの作業にも応用できそうです。

返信する
XIA

「休む」を意識して、やり方を工夫していくと、だんだんとちょうどいい球形の仕方とかペースも見えてきますね。
ある程度慣れてくると、身体感覚がつかめてくるということがあります。
コレも意識して身体に耳を傾けることが当たり前になって、出来るようになったんです。

返信する
XIA

問題が生じる前に大作。
つまり、疲労がたまりやすいとか、体力に問題があるって言うのは、十分休めてないため、却って効率が悪くて発熱するなんてことが多かった。
身体のコンディションが十全にできるようになっていったら、今後も良くなると期待していますし、対策がとれたことで自信にもつながりました。

返信する
XIA

こんばんは。
どうということもありませんが、給与を久しぶりにもらった件です。

返信する
ブルー

<花風社アンチに関する考察:本編第8回>

第7回はこちら
https://naosouhattatushogai.com/all/conference-room/623/comment-page-4/#comment-3912

前回、パラダイムの違いに関して述べました。そして前回の終わりでも述べた通り、単にパラダイムが違うだけではアンチになりません。

実は、違うパラダイムに対した時にいくつかの条件を満たすとアンチになります。それを理解するには、花風社や治る言説が嫌いでも、アンチにならなかった人々を見れば分かります。

なぜ、考えの違う人と、アンチに属性が分かれるのか。まずは、考えは違うがアンチにはならなかった人々を見てみましょう。

■アンチにならなかった人①~花風社が嫌いな成人当事者の場合~

先のNEURO発売時の騒ぎ「ハッタツ大戦」の際には特に目立ったのですが、成人当事者には「治る言説」が嫌いな人も多い印象です。よって花風社が嫌いな成人当事者も多くいるはずです。

ハッタツ大戦時は、クラスタの方や浅見さんと喧嘩になった成人当事者が何人かいました。しかし、彼らの多くは去っています。

アンチにならなかった成人当事者というのは、そこそこ人生が平穏になっている人々です。

当事者ゆえの生きづらさも多少あるようですが、人生何とかなっている。中にはツイートのタイムラインが楽しそうな人もいます。

こういう人達は、「花風社クソだよな~」と、喧嘩になった後は多少言っていましたが、しばらくすると花風社のことは忘れて、どこかに行ってしまいました。そして、これが通常なのです。

パラダイムが違うので、時には喧嘩になることもあるかも知れない。しかし、人は自分と考えを同じくする人とつるむものです。結局、彼らはアンチにはなりませんでした。

さらに、もう一つ事例を見ます。

■アンチにならなかった人②~通りがかりのゴロツキ~

ハッタツ大戦も一つの炎上、いわば火事なので、ヤジ馬がやってきました。その中には、ヒマを持て余した通りがかりのゴロツキがいました。ゴロツキは、浅見さんやクラスタの方を罵倒して、ヒマつぶしを始めました。

浅見さんには
「アサミこのクソが!●ね●ね! あslkdjふぁ(罵詈雑言)」

クラスタの方にも
「治る治る言うんじゃねぇこの野郎! あl;sdl(罵詈雑言)」

ハッタツ大戦後も、ヒマになると多少罵倒してきましたが、何しろ通りがかりにすぎないので、花風社にもだんだんと飽きてしまい、なんとなく次の罵倒対象を見つけると、去っていきました。

これも、花風社に執着していません。というか、本質的には花風社にも発達障害にも興味がありません。結局アンチにはなりませんでした。

■アンチにならなかった理由:その1

上記の治る言説が嫌いな成人当事者(人生そこそこOK)や、通りかがりのヒマなゴロツキが結局アンチにならなかったのは、共通した理由があります。

成人当事者の場合、人生がそこそこ平穏になっているので、ある程度の自己確立ができているといってよいでしょう。特に楽しそうにしているタイプの人ならなおさらです。

こういう人は、嫌いな花風社に関わるより、自分の実生活で楽しいことや、やるべきことをやればそれで時は過ぎていきます。結果、花風社のことは忘れていきます。

ゴロツキの場合は、本質的には花風社とは無関係です。深い興味もありません。ゴロツキにとって花風社は他人事なのです。

つまり、花風社が嫌いな成人当事者や、通りがかりのゴロツキは、花風社に対して自他の切り分けが達成されています。成人当事者はある程度の自己確立によって。ゴロツキの場合はそもそも深い興味も関係もないので、結果として。

上記の人々は、プロセスの違いはさておき、結果として花風社には自他の切り分けができた状態になっています。つまり花風社の存在を対岸の火事として感じるのです。

そして、自他の切り分けが達成されると、花風社とパラダイムが違う場合、時が経てば花風社の事を忘れていきます。

これが、花風社とパラダイムが違う人であっても、アンチ化しない理由の一つ目です。

しかし、自他の切り分けがしにくい立場の人々がいます。つまり花風社を対岸の火事とみなせない立場の人々がいます。それでも、アンチにならない人はならないのです。

次の項目ではそれを検討します。

■アンチにならなかった人③~花風社の本を読んで、分析をした専門職~

ハッタツ大戦時には、いろいろな専門職がいました。ある専門職は、自分の扱う分野に発達障害が含まれていました。つまり、花風社の存在は対岸の火事ではありません。

この方は「フェアな議論がしたい」と、花風社の本を何冊か購入して、自分が共感できるところや、理解できるところ、そして納得できない所を分類していました。

ハッタツ大戦を見て、「対立意見を上手く止揚できないものか」とも言っていました。「ハッタツは治せないと思う。でも(それに伴う)障害は治せるはず」とも言っていました。

この専門職の人も、「治る言説」や花風社には、最終的な所で賛同はしませんでしたが、アンチにまではなりませんでした。

■アンチにならなかった人④~花風社は嫌いだが、クラスタに理解を示した専門職~

また、別の専門職の人。この人は心理系なので、発達障害を扱うこともあるのでしょう。やはり花風社の存在を対岸の火事にはしにくい立場です。

そして花風社のことは「どちらかというと嫌い」とのことでした。しかし、「もし自分の子供が発達障害ならば、必死で治そうとすると思う」「医療側がなんの配慮もなく『治らない』といったら、反発だって起こる」と、花風社クラスタに一定の理解を示しました。

この人も「花風社は嫌い」「治る言説には警鐘を鳴らす立場」と言いながらも、アンチにまではなりませんでした。

■アンチにならなかった理由:その2

上記の専門職は、仕事のフィールドに発達障害を含みます。彼らにとって、花風社は異業種ではあっても同じフィールドにいる存在です。ですので、花風社の存在は対岸の火事ではありません。そして、「治る言説」には反対です。

しかし、アンチにはなりませんでした。それは彼らが、違うパラダイムに対して、自ら切り分けを行ったからです。

例えば、最初に例に上げた専門職は、花風社の本、といういわば「違うパラダイムの理論=異教の経典」に対して、賛成点と反対点の切り分けを行いました。

次に例に上げた専門職は、花風社クラスタの感情、いわば異教徒の感情に関して切り分けを行い、自分が理解できるところには理解を示しました。

このように、例え花風社に対して自他の切り分けがしにくい立場でも、違うパラダイムに関して、賛成点と反対点の切り分けができる人はアンチにはならないのです。

■2種類の切り分け

今回は、以下2種類の「切り分け」に関して述べてきました。

 ・自他の切り分け
 ・異なるパラダイムの切り分け

自他の切り分けは、花風社の存在を、心理的に対岸の火事にします。対岸の火事の特徴は何か。怖くないことです。そう、恐怖が発生しないのです。

それから、違うパラダイムの切り分けができれば、少なくとも花風社クラスタを、ナゾの異教徒には感じません。例え総論で考えが違う人々だと感じても、各論で部分的な賛成点を発見するなど、異教をある程度理解できます。そうするとやはり恐怖が発生しないのです。

違うパラダイム=異教は、理解できないからキモくて怖いのです。切り分けができれば、相手をある程度知れますから怖くなくなります。

■2つの切り分けの失敗でアンチ化する

この自他の切り分けと違うパラダイムの切り分けを2つとも失敗すると、アンチになります。

まず、自他の切り分けに失敗すると、「自分のフィールドに何かが踏み込んできた!」となりますね。

次に、違うパラダイムの切り分けに失敗すると、前回述べたことと被りますが、「理解不能のキモい異教」となりますね。特に、花風社の本を読まないアンチならなおさらです。切り分け以前に何もしていないですから、違うパラダイムを理解できずにひたすら怖くてキモくなります。

つまり、自他の切り分けと、違うパラダイムの切り分けを2つとも失敗すると、

・自分のフィールドに、キモい異教徒が踏み込んできた!⇒怖っ!

となるのです。これがアンチの根本的な心理構造です。いわば、迫りくる異教徒への恐怖です。そして、恐怖に基づく反射によって否定的言動を始めます。これがアンチの言動のメカニズムです。

そう、彼らは「恐怖麻痺反射トンデモ~」と言っていますが、それは彼らの状態像を良く表しているのです。浅見さんが恐怖麻痺反射に最初にピンときた理由ですね。

その恐怖が発生するのは、今回の記事で述べたメカニズムです。2種類の切り分けの失敗によるものです。

■次回予告

次回は、2種類の切り分けに失敗してアンチ化した人々を俯瞰しながら、彼らが嫌いなはずの花風社に執着するメカニズムに関して解説する予定です。

一つ予告すると、執着というのは、花風社クラスタ側からの観点です。
アンチにとっては執着ではないのです。「なぜ彼らは、嫌いな花風社にわざわざ執着するのか」では、問いの立て方が花風社クラスタ寄りになっているので、ナゾが解けないのです。

この場合の正しい問いの立て方は・・・。
次回へ続きます。

返信する
ねこ母

緻密な分析にアンチが紐解かれていく!すごい。そして「執着」という問い方が相手を見えなくしているという視点。思いもしませんでした。
私は「わー嫌。あっち行け!」という自分の好悪がはっきりしているので、合わなければ「合わないんだ。じゃ!」という思考力しかありません。ブルーさんの自他様々な視点、アングルから物事を観察して分析して書かれた文章を読んで、人の奥底に流れる意識の行き来を「ああ、そういうことかぁ」と理解できているところです。
益々楽しみな「アンチ考」です!
ありがとうございます。

返信する
ブルー

ねこ母さん

コメントありがとうございます。

>自分の好悪がはっきりしている
>合わなければ「合わないんだ。じゃ!」という思考力しかありません

⇒これは自己確立からの自他分離ですよね。
本編で書いた通り、これが苦手だとアンチになりやすくなります。

最近この連載を書いていて思うのですが
アンチはいつの時代も、そして誰であっても、何を言っていても、
結局は「全員同じ」だと思います。

パターンが概ね一緒なので。
この連載で扱った内容のどれかには当てはまります。
そのパターンを残しておくための連載です。

今後とも何卒宜しくお願い致します。

返信する
浅見淳子

ブルーさん、ありがとうございます。
夕方自分のメッセージを更新し、ブルーさんの記事を発見し、読んで、ツイッターに貼ってからずーっと考えました。これは深い。ブルーさんの観察はもちろん深いです。ここにあげた専門職、たしかに心当たりはありますが、私はそんなによくみていなかった。なぜかというと、詳しくはブログに書きますが、私は神田橋先生にもこう申し上げたことがあるのです。「今後私が発達障害を続けていける唯一の道は、誰とも仲良くしないことです。誰とも仲良くしなくてすむのなら、もう少し発達の分野での出版を続けようと思います」。

ここの「誰とも」とはもちろん、花風社クラスタを含んでいません。花風社クラスタはその後、私が一から築きあげた人間関係だからです。

発達障害者支援法施行当時なんとなく一緒に「理解ガ~」をやっていた先生たちとはもうきっぱり縁を切りたい。逆に言うと縁を切れるのなら発達をやってもいい、くらいの気持ちでした。それくらい私としては失望が大きかったわけです。

でもおそらくここで止揚だのクラスタの気持ちだのがわかる専門職は、たぶん世代的に若く、私が失望した時代まだ学生だったり駆け出しだったりすると思います。少なくとも50になっていないと目撃するチャンスがなかったと思います。だから止揚だとかなんとか牧歌的なことを言えるのかもしれません。

あと、世代論的になりますが、下の世代はわりと争いごとがきらいですよね。私は全く嫌いではないのです。争いっぱなし上等、なのですね。

もう少し言語化してからまたブログを書きます。
今回もありがとうございました。

返信する
ブルー

浅見さん

コメントありがとうございます。

確かに若い世代は争いを避ける傾向があるように思います。

なんというか、勝ち負けというより、争う程にあいいれないなら、もう干渉しなくて良いのでないの、という感覚かも知れないな、と思ったりします。

仕事等でやむを得ない場合を除いては。

発達障害に関しては、人類はもう経験的に治し方の原則を経験的に掴んでしまっていると考えます。

しかし、理論はこれから20年程度は百家争鳴でしょうから、対立したとしても自分が選んだ道を進めばそれでいいのではと考えます。

その先に多分、自己確立と、結果としての自他分離があるかなと思います。

いつもありがとうございます。

返信する
ブルー

浅見さん
(cc:クラスタ各位)

拝読いたしました。いつもありがとうございます。
連載も7.5合目を通過といったところかと思います。

専門職問題は多面的かつ深いですが、結果を出せる人が一人でも増えるといいですね。これは切に思います。

さて、次回以降ですが「執着のメカニズム」を書いた後、以下を扱っていきます。

「自他の切り分け」に関しては、御期待に沿えず申し訳ないのですが、多分浅見さんが御存知のこと以外は出ないかな~という感じです。

対して、「異なるパラダイムの切り分け」は、少し補足がありますので、それを書きます。

それと、
>心理士なんか愛着障害で頭でっかちでバカばっかり、とか私は常々言っていますが、それでも愛甲さんや座波さんの本は出している。そしてこれらの職業の方たちも愛読者にもいらっしゃいますし講座にもおみえになる。

⇒多分、番外編という形になりますが、心理系アンチに関して、一つ記事を書こうと思っています。

以前浅見さんに言ったかも知れませんが、花風社は存在しているだけで心理系の弱点を刺激します。花風社側にその気はなくともです。

そして以前このサイトで書いた通り、残念なタイプの心理系の人は弱点が多いものです。関連して、歴史的大騒ぎ(爆)をするのは決まって心理系アンチです。

ですので、心理系アンチに関しては番外編で忘備録を書きます。

こんな感じで続いていきます。いつもありがとうございます。
今後ともよろしくお願い致します。

返信する
ブルー

浅見さん

ありがとうございます。ブログ拝読いたしました。
専門家に関する問題は深いですね。

まず、専門家の弱点に関して。仰る通り1つの専門分野から全く出られないタイプの人=悪い意味でリギットな人=は、発達障害の対応は無理だと思います。

発達障害の人を見立てるにあたっては、全人的/全身的、かつ分野横断的な、大きな人間観が必要だと思います。それは、専門家がクライアントを見立てる時だけではなく、成人当事者が自己認識をする際もそうだと思います。

しかし、一つの分野から出られないような人だと、そもそもの人間観が狭くなってしまうので、まず見立てでズッこけ、かつ学んでいる分野が一つしかないので、ツール/ソリューションもないし・・・となります。

それから、どこを向いて仕事をしているか。クライアントに対してでしょ、というのは、我々民間人の常識なんですよね。

アウトな専門家は自分の業界に向かって仕事をしているのですね。言葉を変えると、市場に背を向けているわけです。

以上2点を考えつつ、私自身の体験を振り返ると、治してくれた専門家や、発達のヌケを探し出し、それを埋めるソリューションを提示してくれた方・・・つまり、役に立つ専門家はその逆であったことが分かります。

みなさん必ず、複数個の専門分野を学んでいました。かつ人によっては、そういった経験を踏まえて、オリジナルのソリューションを編み出してしまっていました。

そして、治す系・発達させる系の方に関しては、全員が自営でした。つまり、顧客と市場を向いて仕事をしていました。治せない・発達させることができないと自分の商売がつぶれる、という条件で仕事をしておられました。

また、いずれサイトに書きますが、就労に関しては、人材紹介会社(チャレンジド分野)の担当者にも私は本当に助けられました。で、彼らは何しろ人材紹介業の人々なので、最初から人材「市場」を相手にしているのです。

つまり、専門家の技量の上達に関して、決定的な影響を及ぼしているのは、市場に背を向けるか、それとも向き合うか、ということになるかと思います。

これ以上書くと、また「専門家論」とか、別の連載を始めそうなので、もうやめます(汗)。

いつもありがとうございます。今後ともよろしくお願い致します。

返信する
はづき

浅見さん

元の浅見さんのコメントも削除されていたため、こちらに書かせていただきます。
お忙しい中、ありがとうございます。
承知いたしました。

自分の命を守るために、行政のサービス(最低限のみ)に頼っては
いけないのでしょうか。
今の住んでいる地域の男女共同参画センターは、夫婦間のDVのみ対応しているので、私の状況では使えないです。
生活支援も、できることが無いと言われて、1年以上面談もしていないです。
状況確認の電話も来ないです。

榎本さんには、最低限の連絡などしかしていないです。

返信する
浅見淳子

はづきさん

行政のサービスに頼ってはいけないかどうか、私に決める権利があるはずがありません。
はづきさんの人生ですから。
行政のサービスの限界は著書等で思うところを書いていますが
行政とどう付き合うかはそれぞれの主体性ですよね。

私がやめてくださいと言っているのはここにいる他の参加者を自己治療の道具に使わないでということです。
それと、他人の力を借りつつも本当に治す力があるのは自分だけだということを思い出してください。
はづきさんは次々と頼る人をみつけては子^_^みつくように私には見えているし
プロの人にお金を払って頼むならともかくここで楽しんでいる当事者の人を依存対象にするのは間違いだと私は判断しているということです。

返信する
浅見淳子

はづきさん

それと榎本さんへの発言はいささか恩知らずです。
そういう風に他人にしてもらったことを軽く見る発言をするひとは、どんなに親御さんがひどかったと言い募っても信用できません。私はね。
たんに親御さんにも恩知らずだったかもしれないからです。
行政があてにならないからと花風社クラスタの中に次々と依存対象を見つけるのではなく、親御さんと対峙して解決してきてください。

返信する
シア

こんにちは。

>はづきさん
主体性!ですよね。
つまり、行政の助けが欲しい!危機が迫ってる!ならば、どんどんこっちから行政に(表現を大げさに言えば)凸る、問い合わせる訴える…力があって、できるうちにアポを取る、役所に行ったら、片っ端からめぼしいパンフレットを集めて調べる。
自助努力は、そう言うところに出てきます。
口を開けて待っていては、じり貧です。
だから、頼るも頼らないも、いいも悪いも、とにかくどうしたいか自分でしっかりして決めて行くしかないと思うんです。
誰の許可も要りません。
ファイトですよ!

返信する
ブルー

<花風社アンチに関する考察:本編第7回>

前回(本編第6回)はこちら
https://naosouhattatushogai.com/all/conference-room/623/comment-page-3/#comment-3847

前回扱った、消費者の知的水準に関する問題は、さらに掘り下げることができます。

■事例⑭:「藁を掴まないでください」&「治るビジネスに御用心ください」

このセリフは、往々にして専門職が言うものです。アンチとは限りません。「藁をもつかむ心境の人につけこむ、治るビジネスに御用心ください」という言説は、ネット上では日常的風景です。

なお、ここで言う「治るビジネス」は、発達障害に限らず、様々な疾患を対象にしています。

そしてこの文脈で、花風社も非難されたり、揶揄されたりするというわけです。「花風社は、弱っている人に付け込む悪質な団体ダー」というわけです。

この話は、一旦目線を上げる必要があります。特に何かのアンチではない専門職が、善意からこの手の情報を発信する場合は、一概に「知識でマウント取りたいだけ」と一蹴できません。

一般人に対して、正しい情報を発信していくというのは、専門職の職業倫理にも関係した話です。

ただ、ここで花風社クラスタの皆様が経験でお気づきの論点がありますね。

・何を持って正しい情報とするのか

ということです。

■水準を測る共通のモノサシ

水準を測るには共通のモノサシが必要です。例えば資格試験なら、試験問題と採点基準という共通のモノサシがあるから合否を決められるのです。

前回から取り上げている「素人集団ダー」や、今回事例として出した「藁を掴まないでください」というのは、無意識のうちに消費者の知的水準・知識量を専門職より下と判定しています。

この場合のモノサシは「専門知識の量」「国家資格の有無」「臨床経験の有無」といったところではないでしょうか。

では逆に、消費者が専門職を選ぶ時は、何をモノサシにしているのでしょうか。

例えば、花風社クラスタの方が、発達障害に関して、例えば専門職を利用しようとなった時に、無意識に心の中で使っているモノサシは何でしょうか。

これは当然「治せるか」「発達させられるか」ではないでしょうか。細かくは

 ・臨床能力はあるか
  ⇒実績(エピソード)はあるか
  ⇒知識や技術のアップデートはされているか

といったところだと思います。他にもあるとは思いますが。つまり「専門知識の量」「国家資格の有無」「エビデンス」は、最優先のモノサシにはならないと思うのですが、いかがでしょうか。

発達障害の場合、物事を判断するモノサシそのものが現状ではいろいろあります。そして、人によって使っているモノサシが随分違います。

結果として、見えている世界は全く異なったものになります。発達障害に関しては、人によって「発達障害観」=パラダイムが全く異なるのです。

この後、いくつか例を挙げます。発達障害には現状これだけのモノサシの違いがあります。それは発達障害が現代的で、発展途上の分野であるということも表します。

■モノサシの違いの例

★専門職と当事者/親御さんを比べた場合、まず知識の方向性が違います。専門職は、自分の専門分野を深堀するのが基本です。専門分野の知識を縦に掘ります。

それに対して、当事者・親御さんは、どちらかというと情報を横断的に集める必要があります。知識を、ジャンルを超えて横に広げます。発達は全人的事象なので、一つの分野の専門知識だけでは足りないからです。

つまり、知識を縦方向に掘るか、横方向に広げるか、という違いがあります。

★花風社クラスタも含めて、自閉症・発達障害に対して明るいエピソードを持っている人々というのは、末梢神経系(=カラダ)にアプローチをしています。

しかし、まだまだ発達障害を「脳機能障害(=アタマ)」という定義で見ている人々も多くいます・・・というか、日本の場合こちらがマジョリティでしょう。

つまり、注目するポイントが脳か身体か、すなわち、中枢か末梢かという違いがあります。

★「治らない」というのは、精神科の「寛解パラダイム」の影響も感じさせます。

しかし、発達障害は神経系の問題であって、そもそも精神科ではないよなぁ・・・というのも、花風社クラスタの方が感じられていることだと思います。

そして、「NEURO」を読んだり、いろいろと情報を集めると分かりますが、発達障害は固定的状態像ではありません。そうなると「治らない」という固定的状態像を表す文言とは、考え方が衝突します。

つまり、発達障害を、固定的状態像として捉えるか、変動的状態像として捉えるか、という違いがあります。

★あまりにも原稿が長くなるのでこの件は短く書きますが、花風社のアプロ―チは、やはり以前浅見さんが述べておられたように、「東洋的」です。

それは、やはり西洋医学とは使うモノサシが違うものです。結果として、パラダイムが違います。

つまり、東洋的アプローチか、西洋的アプローチか、という違いがあります。

★「エビデンスガー」というアンチが登場することがあります。もちろんアンチはエビデンスを求めているわけではないことは、本編第1回で述べた通りです。

ただ、この文脈でいくと、花風社や治せる専門職は、エピソードを集積しています。

つまり、エビデンスを重視するか、エピソードを重視するか、という違いがあります。

■事例⑮:「カルトダー」「宗教ダー」「トンデモダー」

つまり、一見、知的水準の問題に見えることを掘り下げていけば行くほど、考える基準の違い=モノサシの違いが露わになってくるということです。

そして、互いがいくつもの異なるモノサシでモノを見ているので、発達障害観=パラダイムが全く異なってしまうのです。

往々にして、違うパラダイムで判断する人同士は、互いにバカかキ●ガイに見えます。いわば「ナゾの異教徒」です。だから相手がキモくて仕方がないのです。

よく、花風社クラスタに対して、「カルトダー」「宗教ダー」「トンデモダー」という言葉がぶつけられることがあります。それは単に科学的ではないとか、論文ガーという非難ではありません。

違うパラダイムで判断する人々=ナゾの異教徒に出くわした時のキモさを表しているのです。

しかも花風社クラスタはどんどん大きく、かつ明るく元気になっていくのです!アンチから見たら、こんなにキモイ集団はありません。

そして、まだまだ発達障害は新しい分野なので、いろいろなモノサシが乱立している状況です。

■次回へ続きます

今回扱ったパラダイムの違いは、アンチの行動や心理、そして反射に根本的な影響を与えています。ただ、次回の予告を少しだけすると、単にパラダイムが違うだけではアンチにはなりません。

アンチになる条件、それは、パラダイムが違う人々に出くわした時に・・・

今回は長くなったのでこのへんで。次回へ続きます。

返信する
浅見淳子

ブルーさん、今回もありがとうございます。
あっちこっち出かけているうちに、担当に渡しておいた私のブログは更新されるわ、ブルーさんのアンチ考察は更新されるわ、おまけに雑談のお部屋もアクティブだわ、とあっちこっちみていたらおまけに愛甲さんからお電話がありました。昨日質問をする会の資料を送ったので「なんじゃこれは~」になったのですね。どういうことかというと、質問する方が愛甲さんにみてもらいたい、と送ってきた知能検査の結果に対するどっかの凡心理士の評価がめちゃくちゃだということでした。こんな心理士がまかり通っているのかと思ったそうです。

まあことほどさように、我々はできない、治せない、唯一のやれることがアセスメントなのにそれさえ外す有資格者を見過ぎているのですよね。

また、「不安につけこむ」。これに対しても私は意見があります。またお返事書きますね。

ありがとうございました。

返信する
ブルー

浅見さん、お忙しい所コメントをありがとうございます。

>質問する方が愛甲さんにみてもらいたい、と送ってきた知能検査の結果に対するどっかの凡心理士の評価がめちゃくちゃだということでした。こんな心理士がまかり通っているのかと思ったそうです。

まあことほどさように、我々はできない、治せない、唯一のやれることがアセスメントなのにそれさえ外す有資格者を見過ぎているのですよね。

⇒専門職の論点ですね・・・。

花風社は発達障害を扱っていますが、
必然的に「専門職問題」を扱っているようにも思います。
これはこれで一つのジャンルになりますね。

お返事ブログも楽しみにしております。いつもありがとうございます。
今後とも宜しくお願い致します。

返信する
いぬこ

毎回とても楽しみにしています!
全てが終わったら、(終わってほしくないー)
感想を書かせて頂きたいです。

今日のキモいのくだりに爆笑でした。
治った!治った?やったね!といつも元気で頼もしく、強くて清くて明るいクラスタは、
アンチからするとさぞやキモいのでしょう。
治ってるんだもの、キモさ万歳でございます。

返信する
ブルー

いぬこさん

コメントありがとうございます。そして、爆笑して頂けて何よりです。

考えてみると、発達障害のコミュニティで「明るい」場所は非常に貴重ですね。
私が知る限りは、花風社クラスタと、以前取り上げた「ハッタツBar」くらいかなぁと思います。他にもあるとは思いますが。

アンチは例え機嫌の良さそうなつぶやきをしていても、
twitterアカウント全体にどことなく暗さがあります。

その暗さの原因は何かということを、この連載で検討しております。
今後とも宜しくお願い致します。

返信する
金田 隆佳(かねた たかよし)

ブルーさん、今回もありがとうございます。

今回「情報」「モノサシ」というキーワードが出てきたので、返信という名目で、僕が個人的に面白いなぁと思ったことを書かせてください(笑)

「なぜ人と組織は変われないのか」という発達心理学と教育学の専門家が書いた本があります。

第一部「変われない本当の理由」の中に、大人の知性には

・環境順応型知性
・自己主導型知性
・自己変容型知性

と3つの段階があり、「その特性によって、世界の理解の仕方と、世界で行動する際の基本姿勢がまるで違う」ということが書かれています。

それぞれの特徴も詳しく書かれていますが、ブルーさんの考察に合わせて読んでいて面白いのが「情報をどのように受け取り対応するか」についてです。

それぞれ、情報をどのように受け取り対応するかを直接引用し書いていきます。

================================
【環境順応型知性】
このレベルの知性の持ち主にとっては、重要人物の意向に反しないことと、好ましい環境に自分を合わせることが、一貫した自我を保つうえで大きな意味を持つ。

そのため、情報にとても敏感で、情報の影響を受けやすい。

受け取る情報はたいてい、言葉で表現されるメッセージだけにとどまらない。ときには、相手のメッセージの意味をくみ取ろうと神経質になるあまり、メッセージの送り手が意図した以上に強い影響を受ける場合もある。

その結果、リーダーはしばしば、どうして部下が「あの言葉をこんな風に解釈するのか?」と驚き、戸惑うことになる。

情報のアンテナが歪んでいれば、実際に届く情報は送りての意図と似ても似つかないものになりかねない。

【自己主導型知性】
自己主導型知性が環境順応型知性と違うのは、どのような情報を受け入れるかを選別するフィルターを作り出すという点だ。

最優先されるのは、自分が求めている情報。その次に優先順位が高いのは、自分の計画、基本姿勢、思考様式との関わりが明白な情報だ。

自分が求めておらず、自分の計画とはっきりした関連も見えない情報は、フィルターをすり抜けることがきわめて難しい。

【自己変容型知性】
自己主導型知性の持ち主と違うのは、フィルターと自分が一体化していないということだ。フィルターを通してものごとを見るだけでなく、フィルターと距離を置いて、フィルターそのものを客観的に見ることができる。

フィルターをうまく活用しているが、フィルターの奴隷にはならない。

自分の持っている地図が正しいと判断すれば、自己主導型知性の人たちと同様に、その地図に基づいて目的地に向けてまっしぐらに車を走らせる。しかし、それより重んじているのは、現在の計画や思考様式の限界を教えてくれる情報を得ることだ。

玉石混交の情報の中から石を弾き出すうえでフィルターは重宝しているが、ときにフィルターが有益な「黄金の石」まで弾き出してしまうことも忘れていない。

既存の計画をすべてひっくり返し、いっそう高いレベル計画を築くうえでは、自分が求めていなかった情報、変則的な現象、一見すると重要でなさそうなデータが欠かせない場合もある。

=====================================

仕事や治るための情報はもちろんですが、「情報」には色々な意味があります。

そのような情報を「どのように受け取り」「どのように対応するか」にも自律(反射のコントロール)が関与しているってことですね。

発達障害でも働けますか?のP185の図に当てはめてみると、土台ができてきて、「自我を保つので精いっぱいの状態が環境順応型知性」ということが分かりますので、自律できているのは「自己主導型知性」からです。自己変容型知性は自律レベルが高いともいえます。

発達障害でも働けますか?のP33の図は、そのまま知性と情報の受け取り方、対応の仕方にも当てはまりますね。

僕たちが「大人の知性」を身につけているのか?どの大人の知性まで発達しているのか?で、情報の発信、受け取り、対応方法に大きな違いがあるってことですね。

長文失礼しました。

次回も楽しみにしています。

返信する
ブルー

金田さん
コメントありがとうございます。

その本はちらっと見かけたことがあります。
そうなんですか、そういうことも記載されているのですね。

そして金田さんが書かれている通り、パラダイムの違う情報に対して

>「大人の知性」を身につけているのか?どの大人の知性まで発達しているのか?
>で、情報の発信、受け取り、対応方法に大きな違いがあるってことですね。

⇒仰る通り、これがポイントです。そしてポイントですので、次回のテーマです。

今後ともよろしくお願い致します。

返信する
nobutaku

いつもとてもわかりやすくて頭の中を整理するのに本当に助かります。ありがとうございます!
なぜあの人たちはあれほどまでにこちらを理解できないのか?なるほど、そもそものパラダイムが違えばいくら進んでも交わることはない異次元空間ということですね。
ていうか、そんなに構えなくても、「ちょっと読んでみるか」とか「暇だしちょっと試してみるか」とかにならないほどに思考も認知も行動も凝り固まってる不幸は、側から見ると痛々しいとしか言えません。

返信する
ブルー

nobutakuさん

コメントありがとうございます。

>なぜあの人たちはあれほどまでにこちらを理解できないのか
>思考も認知も行動も凝り固まってる

⇒次回はこれに関して、掘り下げます。

本文にも書かせて頂いた通り、パラダイムが違うこと、
単にそれだけではアンチにはならないです。
逆に「え?!治るの?」となって、読者になる人がいる。

また、パラダイムが違う帰結として、結果として花風社が嫌いだとしても、
まだそれだけではアンチにはならないです。

「私は花風社は嫌いです」というだけ・・・つまり「考えの違う人」です。

そして、こういう人は、例え「治る言説」や、花風社が嫌いでも、
「奇妙な執着」をしないです。で、それが通常の人なのです。
嫌いなものからは離れていき、そして忘れていきます。

ところがアンチは、最古参だと10年にも渡り・・・ということです。

こういった違いがどこから生じるのか、ということですね。

もし宜しければ、今後も連載をお読み頂けますとありがたいです。
宜しくお願い致します。

返信する
シア

こんにちは。
とある「ありのまま系」の人が、こんなことを言ってました。
・「改善の先には改善しかない。」
・「修行をいくら進めても、己を受け入れることができない。」
しかし、これらは私の価値観にはそぐわなくなって久しいです。
「市場」で受け入れられるには、常にいいものを出していきたいし、同じでもコストを下げるとかすることができます。
それで競争に勝てるのではないか。
惰性で仕事をしているのは、ある意味つまらない・不幸なことです。
創意工夫があって、それによってやりがいも生まれるし、自分の技術や知識がアップデートされることで、成長も感じられます。
もし体力勝負でなくても、常に新しいことも取り入れて、時代に取り残されないようにもしたい。
「受容」と言うのは聞こえはいいけど、「諦念」に近いものではないのか。
昨日と今日と明日は違います。
常に新しい一日で、違う自分を生きていると思います。
それが、「発達」と言う考え方に向き合うことで得られることだと思うんです。

返信する
浅見淳子

改善の先にはまた課題が出てくる。
当たり前じゃんねー。
なんでそんな当たり前のことでくじけるのか。
わからん。

返信する
浅見淳子

昨日、ブルーさんの記事、第6回にお返事ブログ書いたのですが
その後味噌ぴさんのツイートを見て「書き忘れた!」と思ったことがあったので追記を書きました。

あとでメッセージコーナーにも貼るつもりですが
ブルーさんの連載は仕事のお部屋で続いているのでここにも貼っておきますね。

https://blog.goo.ne.jp/tabby222/e/65cc92ddbedbd0e3a678878159c0a275

返信する
ブルー

浅見さん、ありがとうございます。
専門性・・・というか、「専門家」問題は深いですね。

それだけで多分またシリーズ連載できます。(やるかどうかはともかく)
私達には死活問題ですね。専門家の選択は。

返信する
シア

配送業者に商品を持ち込むと、仕事は割れてしまいます。
一度、配送業者が事故を起こして、補償を受けたことがあります。
その手続きで、完全に仕事が割れました。
しかし、配送業者が「力の強いおじさん」ではなくて、会社員であって、お客さんを大事にする、私と同じだったと言うことが分かりました。
それで、「お疲れさま。」「よろしくお願いいたしますね。」そう言い合える、一緒に一つの仕事をする人間として、考えられるようになりました。

返信する

ブルー へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


画像アップロード(PNG, JPG, JPEG)